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日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか2(2)〜ヒトゲノム計画と分子生物学

物語 遺伝学の歴史 〜生物学・医学に進もうとする高校生へ


生物の遺伝情報は基本的に核(あるいは核様体)のDNAの塩基配列に保存されていることは、本書にも引用されているエイブリーの肺炎球菌の毒性因子の解明ではっきりしました。ゲノムとは「ある生物種を構成する遺伝子の一揃い」と高校の生物(我々の頃は生物II)で教わります。ある生物種のゲノムを明らかにするには、その生物の核DNAの塩基配列をすべて解明すればいいということになります。DNAの塩基配列決定法は初期のマクサム・ギルバート法、そしてサンガー法へと移行しましたが、1980年代までは1回に解析できる配列数はせいぜい数百でした。遺伝子の長さは普通数千塩基以上はあるので、1つの遺伝子の塩基配列を決めるだけでも、10回以上は場所を変えて調べないとなりません。


 しかしDNAの配列は無限ではないので、いずれ全てを解明できることは自明でした。80年代にはゲノム、特に我々ヒトのゲノムを全部解明しようとする動きが、アメリカを中心に広がりました。それが本書でも触れられている「ヒトゲノム計画」です。DNAの構造解明をおこないクリックとともにノーベル賞を受賞したジェイムズ・ワトソンなど中心となり、1989年にコールド・スプリング・ハーバーで開催された初めてのゲノムマッピングに関するミーティングで、ヒト遺伝子解析機構(Human Genome Organization, HUGO、ヒューゴ)設立が発表されました。元々はイギリスの生物学者シドニー・ブレナー(2002年ノーベル生理学・医学賞受賞)の提唱ですが、アメリカ政府の圧倒的な支援があり、アメリカ連邦政府エネルギー省(U.S. Department of Energy's: DOE)とアメリカ国立衛生研究所(National Institutes of Health: NIH)から大きな予算を獲得しました。HUGOには上記のワトソン以外にもアメリカのゲノムプロジェクトの代表者フランシス・コリンズや杉氏が問題視するセレーラ社のクレイグ・ベンターも入りアメリカ主導でしたが、ヨーロッパ各国や日本の研究者も参画しました。一番の問題点は有限とはいっても3億塩基配列と想定されたヒトのゲノムをどうやって解析するかです。


 杉先生が難じているのは、世界に先駆けて「解読自動化」を提唱した東大・生物物理学の和田昭充(あきよし)教授の計画案が、結果的に無視されたことです。和田先生は生体高分子の立体構造が専門ですが、解読自動化に必要な塩基配列解析装置(ロボット)の計画など1981年には早くも具体性に富んだ計画案を出しています。当時の日本はバブルの絶頂期に向かう時代で、名実ともに世界有数の経済力を誇っていました。日立製作所、富士フィルム、セイコーなどの日本企業が、和田氏の期待に応える塩基配列解析装置を開発していましたが、80年代後半には頓挫したのです。なぜか?というと、これまた経済問題で日本の経済力勃興によって増した日米貿易不均衡を是正すべく、アメリカ製品を日本は購入するよう督励されたからのように私は感じます。この結果、アメリカのABI(Applied Biosystems Incorporation)が売り出した塩基配列解析装置が日本をも席巻したのです。また計画案自体では後発だったアメリカのリロイ・フード(カリフォルニア工科大学)が、ABIとのタイアップにあって急速にその発言力を強め、結果として塩基配列解析装置開発計画自体もアメリカ主導になりました。杉氏は和田氏の計画案頓挫には日本の文部省と科学技術庁の省益争いも影響したとみています。「ヒトゲノム計画」とプロジェクトであり科学技術だから、「科学技術庁」というわけです。しかし文部省も当然ながら非常に大きな予算となるこの計画に多大な関心を寄せ綱引きになりました。狡猾なワトソンがこの混乱に乗じて日本政府に圧力をかけ、結果として1998年に科学技術庁系の理研の施設としてゲノム科学総合研究センターが設立されたとしています(前述の和田昭充氏が所長に就任)。


 この辺は杉氏の理解が正確でない気がします。まず日本において最初にヒトゲノム計画に参画するようになった研究者は、慶應医学部分子生物学の清水信義教授だと思います。清水氏は1983年に慶應の教授に就任する前からその構想がありました。日本でもアルツハイマー病因子のβAPPに関連した榊佳之氏(東大・医科研)、本書にも出ている松原謙一氏(阪大・細胞工学センター)なども関心を抱いたと思いますが、後発です。清水氏が主に科学技術庁の支援を得ながら1990年代初頭から慶應医学部を中心に大きなゲノム解析センターを設立し、22番染色体(1999年)、21番染色体(2000年)の全塩基配列を決定していきました。しかし上記の理研・ゲノム科学総合研究センター設立で、官立の解析センターもできました。両者の関係は微妙なものだったと思いますが、とにかく協同しながら日本のゲノム解析を先導しました。文部省では第0期ともいえる総合研究A「ヒトゲノムの推進に関する研究」(代表・松原謙一、1989-1990年)とそれに続く第1期(1991-1995年、創成的基礎研究「ヒト・ゲノム解析研究」代表・松原謙一、及び、重点領域研究「ゲノム情報」代表・金久實)、第2期(1996-2000年、重点領域研究「ゲノムサイエンス」代表・榊佳之)が続いております。1991年には東京大学医科学研究所にヒトゲノム解析センター (ゲノムデータベース分野) も設置されています。ところが2001年に科学技術庁が文部省と合併して文部科学省となってから風向きが変わります。2001年、合併前の科学技術庁は清水氏に対して研究資金の打ち切りを通告し、その後研究支援の場は上記の理研・ゲノム科学総合研究センターに一本化されました。おそらく榊氏が教授として所属した東京大学医科学研究所のヒトゲノム解析センターとの棲み分けが問題になったのかもしれません。


 この話は戦前、北里柴三郎が率いた内務省の伝染病研究所が、東京帝国大学医学部の青山胤通教授の陰謀で東京帝大に召し上げられた逸話とよく似ています。長年の細菌学に対する貢献をいとも簡単に無視した文部省(とその背後の東京帝大医学部)に憤慨した北里は伝研所長を辞任しました。そのとき慶應義塾の福澤諭吉が支援の手を差し伸べて、「北里研究所」が設立されて北里を所長として伝研の多くの門下生も迎入れました。またそのしばらく後に創立された慶應義塾大学医学部に北里は医学部長として迎えられました。今日の慶應医学部の隆盛はこのような経緯の上にあるのは有名な話です。しかし清水信義氏の場合、慶應義塾からそういう支援の手は差し伸べられませんでした。その原因は何かと訊かれれば、清水氏の性格も多分に影響したかもしれません。詳細は省きますが、とにかく慶應内でも周囲との軋轢・衝突に絶えなかったように感じます。しかし2003年にヒトゲノムの解読ドラフトが終了したことを清水氏は榊氏とともに、当時の小泉純一郎首相に報告する栄誉に浴しました。清水教授は2007年に定年で慶應を退職し、2015年死去しました。


 杉氏はゲノム解析に貢献しなかった人物として、清水氏の前任者だった渡辺格・慶應医学部分子生物学教授の1993年の発言をやり玉に挙げています。しかし、これは完全に見当はずれで、その10年前の1983年に渡辺氏は慶應を定年で退職しています。ですから、杉氏の指摘は間違っています。


 また杉氏の最大の誤謬は、日本の分子生物学研究者の多くがほとんどこのゲノム計画に関心を示さなかったことを問題視していることです。最初に申した通り、ヒトゲノム計画はtechnologyとしての側面が大きかったです。生のDNAから塩基配列を読み解く技術、解析で得た厖大な塩基配列データを解析する技術と、無論技術開発をする研究はありますが、その過程そのものにはscienceを感じさせるものが乏しかったと言えます。杉氏自身が言うように多くの医学・生物学研究者の関心は生物個体の動的な制御にあります。DNA配列はその基盤ですが、それ自体の解析には生物個体の生理は関係ありません。ですから、多くの分子生物学会会員にゲノム計画への参画機運が乏しかったのは仕方ないことで、杉氏の批判はお門違いです。今日となると、古典的な「遺伝子」がゲノムDNA中に占める割合はわずか数%に過ぎず、厖大な配列の役割は2023年の今も依然として謎です。しかし今勃興している世界的な情報科学の進展で、新たな解明がそう遠くなくある予感がします。その点、以前取り上げた本は遺伝学を俯瞰する良書でありながら、このゲノム解析にまったく触れてない点は良くないところです。


日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか 杉晴夫著 光文社新書 2022.04