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小早川秋聲「國之楯」〜プロパガンダの威力

ポワール


戦死者をイメージした作品ですが、何とも強いインパクトがあります。体の肌はどこも露出していませんが、そこに重みがある遺体が確かにあるという実感がひしひしと湧いて来ます。8月15日の「終戦の日」に日経がこの記事を掲載したのも、強い意思があってのことだと考えます。

プロパガンダの威力(3)小早川秋聲「國之楯」


近現代史研究者・辻田真佐憲

美の十選

2025年8月15日 2:00 [会員限定記事]


黒い背景に、陸軍将校の遺体が横たわる。顔は寄せ書きのある日の丸で覆われて見えない。「軍神」や「大君の御楯(みたて)」という題名も検討されたという事実からわかるように、もともと戦死者を讃(たた)える意図で描かれた作品である。


日本画家・小早川秋聲の代表作たる本作は、エピソードが尽きない。1944年、天覧に供するため陸軍省の依頼で制作されたというが、結局受け取りを拒否された。


また、制作中の本作を見た将校らが圧倒され敬礼したとも、作品搬出の手伝いにきた女性が泣き伏したともいわれる。真偽のほどは不明だが、そう語られて納得してしまう異様な迫力がこの絵には備わっている。


戦後になって改作されたことも記しておくべきだろう。もとは桜の花が遺体に降り積もるように描かれていたらしいが、1968年に黒く塗りつぶされた。


だいぶイメージが変わりそうだが、それを踏まえてなお作品の意義は揺るがない。顔が見えないことも解釈を誘う。そこに横たわるのは、もしかすると自分の戦友や親族かもしれない。そう考えれば、敵愾(てきがい)心をかき立てられるものもいようし、逆に厭戦(えんせん)や反戦の感情を抱くものもあろう。この両義性こそ、本作の奥深さである。(1944年・1968年に一部改作、紙本著色、151×208センチ、京都霊山護国神社蔵)

なるほど、折角戦争画として制作されたのに、依頼主の陸軍省から受け取りを断られたのか。この絵は捉えようによっては戦争の残酷さを痛烈に批判しているように感じられます。いったい改作前の桜が描かれる絵とははどんな絵だったのか?検索してもなかなか見つかりませんでしたが、Hiroshi Adachiという方のサイトにありました。

他の情報も参照するとこの画像は原画そのものではなく、改作に残存する痕跡から「こうでなかったか」と復元されたイメージでないかと感じます。絵として見る時、改作前より改作後の方がよりすっきりと横たわる遺体のイメージに集中することができると感じます。いずれの絵にもある顔を覆う日章旗には寄せ書きが見えます。その頭上にかかる円形の影が何なのか?後光というかニンバスみたいな効果なのでしょうか?


Hiroshi Adachi氏のブログを引用します。

じつはこの絵の元のタイトルは『軍神』だった。だが、絵の作成を依頼していた陸軍省内部で感動的なこの絵を高く評価する声と「戦死者」を描いていることへの疑問の声の両者で議論が起こり、結果は「受け取りできない」と決まってしまった。この時に、小早川はタイトルを『國之楯』へと変更したようである。


 絵をよく見ると兵士の体のすぐ上部に淡い光のようなものを感じないだろうか。この淡い光のようなものは暗闇の中の兵士を描く作者の工夫だが、元の絵にはさらに絵の上部に「桜の花が降り積もるように」描かれていたという。戦後に作者自身が塗りつぶしたのである。なぜか?そこには戦争を美化した!と「戦争犯罪」を問われるのではないか、という恐れがあったからだろうと推定できる。

これは違うのでないか?改作は後述するように陸軍からの返却後すぐで、戦争犯罪を問われた時期ではない。そもそも桜の花を消したら、どうして戦争犯罪でなくなるのか?やはり、作者が客観的に遺体そのものに見るひとの意識を集中させたかったからとみるのが自然でしょう。小早川秋聲はあまり名が知られてませんが、どういう経歴だったのか。wikiから引きます。

小早川 秋聲(こばやかわ しゅうせい、秋声とも、1885年(明治18年)9月26日 - 1974年(昭和49年)2月6日)は、大正から昭和中期にかけて活動した日本画家。文展・帝展を中心として活躍、今日では《國之楯》を始めとする戦争画で知られている。


生い立ち


鳥取県日野郡日野町黒坂の光徳寺住職、小早川鐵僊の長男として、母・幸子の実家、神戸市の九鬼隆義子爵邸内で生まれる。本名は盈麿(みつまろ)。秋聲の号は、青年時代に愛読していた『古文真宝』収録の歐陽修の詩「秋聲賦」から取ったという。父は京都東本願寺の事務局長を勤め、母は元摂津三田藩九鬼隆義の妹である。幼少時代を神戸で過ごす。弟の小早川好古も日本画家である。


幼い頃から、「おやつはいらないから紙をくれ」とねだるほど絵を好み、ある南画家に就いて日本画の手ほどきを受けたという。中学在学中には博物館などへ熱心に作品を見に行き、模写などもした。父の跡を継ぐよう求められ、1894年(明治27年)9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入り、1900年(明治33年)務めを終えた父に連れられ光徳寺に帰郷する。しかし、画家になる夢を捨てられず、寺を飛び出し、神戸の九鬼家に戻る。翌年、真宗高倉大学寮(現在の大谷大学)に入学。ただ、その後も時々帰郷したらしく、地元には秋聲の初期作が幾つか残っている。1905年、一年志願兵として騎兵連隊に入隊した。秋聲は見習士官として日露戦争に従軍した。「露営之図」という絵はおそらくこの期間に描かれたとされる。1907年(明治40年)特科隊一年志願兵として騎兵連隊に入隊、陸軍予備役少尉になる。その後の年次訓練などで大正期に陸軍中尉に上がっている。


画業と外遊


1905年(明治39年)4月20歳で、四条派に属する谷口香嶠(幸野楳嶺門人)の画塾「自邇会」に入る。1909年(明治42年)香嶠が教授を勤めている京都絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)開設の年に入学するが、同じ年に早くも退学。祖母利佐の紹介で松平恒雄を頼り、水墨画を学ぶため中国へ渡る。中国では1年半ほど過ごし、文部次郎厳修邸に寄宿しながら、北京皇室美術館で東洋美術を研究し、その合間に名勝古跡を巡る。1912年(明治45年)から日本美術協会展に出品し始める。1915年(大正4年)香嶠が亡くなると、山元春挙主催の「早苗会」に参加、のちに同会幹事を務めた。この頃からの秋聲の目覚ましい活躍が始まる。1914年(大正3年)の第8回文展に「こだました後」で初入選。以後、文展に4回、帝展に12回、新文展に3回入選し、力作を次々と発表していく。一方で九鬼家の援助で経済的に恵まれていた秋聲は、当時の日本人としては異例なほど頻繁に海外へ出かけている。文展初入選と同年から3年間、度々中国へ渡って東洋美術の研究に励む。更に1920年(大正9年)の3年間は今度はヨーロッパを外遊、翌年ベルリン国立アルトムゼーム研究室で2年学び、帰途にはインドやエジプトにも立ち寄った。他にも1926年(大正15年)3月から7月にかけては、日米親善のためアメリカに渡っている。こうした研鑽から、秋聲の絵は文展・帝展の中でも異彩を放ち、中国やヨーロッパに題材を求めた異国情緒漂う作品も珍しくない。私生活も充実に、1922年(大正11年)に渡欧中ながら結婚、翌年の帰国後、京都市左京区下鴨森前町に豪邸を建てる。

小早川は師事した師匠を通じて画壇に頭角を顕すといった感じでなく、伯父の財力をバックに独学で画才を伸ばした感じです。伯父の九鬼隆義とは何者か?wikiから引きます。

九鬼 隆義(くき たかよし)は、日本の大名・摂津三田(さんだ)藩の第13代(最後)の藩主。九鬼氏25代当主。官位は従五位下、長門守。子爵、貴族院議員、宮内省準奏御用掛を歴任。贈従四位。

経歴

丹波綾部藩主・九鬼隆都の三男。幼名は啓之助。母は側室の佐里。養母は大村純昌の七女・於咸。正室は九鬼精隆の三女・於金(金子)。継室は松井松平康爵の娘、佐藤一昌の娘。 

安政6年(1859年)11月、第12代三田藩主九鬼精隆の急逝により、綾部藩から養嗣子として入り跡を継ぎ、同年12月28日に叙任した。三田藩主に就くと藩政改革を断行し、下級藩士の白洲退蔵や小寺泰次郎の登用、スナイドル銃の使用など、藩兵の軍備洋式化を行なった。 一方、私生活は質素で、『華族同方会報告』第24号によれば「朝夕は茶と沢庵漬けの香物」で「一書生の如し」であった[1]。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦い直後から新政府に与して戦った。当初は、大政奉還に強く反対した佐幕派であったが、勤王派に転身した。


明治になってから隆義は、川本幸民を通じて江戸の福澤諭吉と親密になり、藩士を慶應義塾に学ばせたり、慶應義塾の学校運営にも助言するなど晩年まで親密な関係となる[2]。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免官された。明治5年(1872年)、近代港として発展が見込まれる神戸に居を移し、三田藩士の多くもこれに倣った。生田川付け替えに伴う埋立地の買占め、転売で巨利を得た。この資金を基に1873年(明治6年)3月、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、白洲退蔵や小寺泰次郎らとともに「志摩三商会」という神戸初の貿易商社を設立した。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町、三宮といった神戸港周辺の都市開発や女子寄宿学校(神戸女学院の前身)・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼした。 

一般に「士族の商法」は失敗がほとんどですが、三田(さんだ)藩藩主・九鬼隆義は例外的に大成功を収めたといえます。慶應義塾を創立した福澤諭吉とも親交があったとは初めて知りました。調べると、明治初年入塾者減少から経営危機に陥った慶應義塾の再建にも、九鬼は多大な貢献をしたようです。


再び小早川のwiki記載を抜萃します。

1931年(昭和6年)の満州事変後から1943年(昭和18年)まで、関東軍参謀部、陸軍省の委嘱により、従軍画家として中国や東南アジアなどの戦地に度々派遣され、戦争画を多く描く。画家の従軍が本格化するのは、1937年(昭和12年)の日中戦争後であり、秋聲の従軍はかなり早い。1941年(昭和16年)には大阪朝日会館で、洋画側の代表藤田嗣治と共に、従軍日本画家の代表として講演している。


秋聲は将官待遇で従軍していたため、戦地でも贅沢が出来たはずだが、共に戦う者として自身にも厳しい従軍生活を課していた。ところが、従軍生活の長さからくる凍傷で体調を崩し、1944年(昭和19年)には肺炎をこじらせる。戦後の秋聲は戦争画の制作は禁じられたものの、戦犯指定は他の画家同様に逃れ、1946年(昭和21年)に日展委員となるも、多作や大作がこなせるまでは回復せず、戦後は依頼による仏画を手がけたと言われる。また、後述する『鎮魂歌』展では1964年(昭和39年)の1964年東京オリンピックで行われた聖火リレーに題を取った「聖火は走る」が展示された。

1974年(昭和49年)老衰により京都で亡くなった。享年89。墓所は大谷祖廟。


なるほど。画家としての小早川秋聲は戦争画家としてのイメージが強く印象づけられており、これが戦後あまり表舞台に出てこない理由でしょう。


『御旗』


『日本刀』


『虫の音』

見た印象、小早川の戦争画は勇ましいというよりも、兵士の日常を捉えた哀愁に富む絵が多いと感じます。「國之盾」に関するwiki記載を抜萃します。

代表作

    《國之楯》 紙本著色 額1面(151.0×208.0cm) 京都霊山護国神社蔵(日南町美術館寄託) 1944年(昭和19年)(1968年(昭和43年)に一部改作

        日本兵の遺体を全面に取り上げた、戦争画の中でも異色の作品。黒一色で塗りつぶされた背景に、胸の前で手を組んだ日本兵が大きく横たわっている。顔には「寄せ書き日の丸」が深く覆いかぶさり、この名も知れぬ兵士がお国のために死んだ事実が明瞭に示される。手や腕、胴体はやや誇張的に重量感をもって描き出され、観者は「動かなくなった人間の肉体」を強く意識させざるを得ない。

        横たわった遺体像は秋聲が遊学中に訪れたエジプトで描いた《エジプト ミイラの回想》に類似している。

        当初は「軍神」という題名で、遺体となって横たわる兵士の頭部背後には金色の円光、背後には桜の花弁が降り積もるように山なりに描かれていた。しかし、後述の返却後、秋聲は背景を黒く塗りつぶし「大君の御楯」と改題、更に23年後『太平洋戦争名画集 続』(ノーベル書房、1968年)に収録される際、一部改作して「國之楯」と再び題を変えて現在の状態になった。こうした度々の改題・改作は、戦中から戦後の社会通念の変化に伴い、尽忠報国から追悼・哀惜へと作品を転化させる操作とみられる。

        本作品は、元々天覧に供するために陸軍省から依頼された作品である。絵の完成を聞きつけた第十六師団長とその部下たちは、この絵の前で思わず脱帽・敬礼し、搬出を手伝いに来た女性は絵を前に泣き崩れたという。しかし、戦死者の視覚化は戦争表現や「死の美化」に必須な一方、厭戦感を引き起こすとして、軍部・美術家共に非常に神経質な命題だった。代表的な戦争画である藤田嗣治の「アッツ島玉砕」でも、画中の死体は全てアメリカ兵である。最終的に陸軍省は本作品の受け取りを拒否し、秋聲の手元に残された本作は前述のような改作を受けることになった。現在の本作品では「返却」というチョーク書きが残されている[3]。

そうは申しても、この「國之盾」ほど鮮烈なイメージを遺す作品は他になく、小早川の代表作といっていいでしょう。しかし、大東亜戦争の位置づけが戦争中と戦後でがらりと変わったことを受け、題材として議論を呼ぶことは間違いない。


再びHiroshi Adachi氏のブログを引用します。

  「昭和20年8月15日以後、小早川秋聲は、自らも戦犯として捕らえられることを覚悟していたという。アトリエにはわずかな画材道具と身の回りをまとめた風呂敷包みを置き、逃げたと思われるのが嫌さに、旅行などには決して出掛けなかった。「巣鴨に行くんだろうな」「来ないねぇ」と呟くこともあったらしい」(神坂次郎・福富太郎・河田明久・丹尾安典『画家たちの「戦争」』p23)


 こうした忌まわしい「戦争犯罪」「戦争責任」という言葉は今現在も亡霊のごとく私たちの国に漂っている。この亡霊が美術の世界でどれほど貴重な名画を傷つけてきたか?この塗りつぶしのエピソードでもわかる。


 最後に小早川の気骨あるエピソードを紹介しよう。


    「戦後、一九四九、五○年頃のことである。新聞記者か雑誌記者かが、案内も乞わずに秋聲のもとおとずれ、「貴方にとって戦争は何だったのか」と無遠慮にたずねた。すると、秋聲は、それまできいたこともない大音声で「何も言うことはない。帰れ」と怒鳴ったという」(松竹京子「小早川秋聲私感ー寂けさを求めつづけた人生ー」『小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌』求龍堂p155)


 小早川秋聲の他の戦争画を2枚紹介したい。


 どちらも最前線で戦う兵士たちへの深い愛情と共感がにじみ出ている。

『御旗』は歩哨に立つ一人の兵士を描いている。明け方なのか、辺りが徐々に朝靄に包まれているようだ。そこに立つ一人の兵士。どのぐらいの時間ここに立っていたのだろう。その後ろ姿に思わず頭が下がる。光を浴びる足元の花々は遠い祖国の人々の化身かもしれない。


『虫の音』はつかの間の休息で睡眠を取る兵士たちの姿だ。故郷で待つ家族の夢を見ているに違いない。「さぞかし疲れてるんだろうな」「自分もこんな格好で寝ることあるな」と思うと兵士への親近感がわく。そして、祖国の両親、恋人や奥さん、まだ幼い子どもたちに会わせてあげたい、という気持ちにもなる。


「戦争」について教材研究するとき、この時代に我が国を守ってくれた兵士たちへのリスペクトを忘れてはならない。

大まかにはその通りですが、その感じ方には共感できない。特に最後の


「戦争」について教材研究するとき、この時代に我が国を守ってくれた兵士たちへのリスペクトを忘れてはならない。


とは当時の日本軍の捉え方の価値観が偏っています。小早川が描いた戦地の風景はほとんどが自分自身で取材した日本軍が外地に侵略に赴いた光景であり、我が国を守るという意味ではない。たとえアメリカ、イギリスからの経済封鎖で行き詰まっていたとしても、彼の地においては日本軍は侵略者だったことは歴然としています。こういう捉え方で大東亜戦争を賛美し、当時の日本軍の行動の肯定とともに美化を図る動きがあるために、小早川は戦後画筆を折ったのでないかとすら感じます。Hiroshi Adachiはプロフィールをみると小学校教員のようですが、「自由主義史観研究会」のメンバーで「教科書が教えない歴史」(扶桑社)の執筆者の一人です。扶桑社はサンケイ系の出版社で、「新しい歴史教科書」やその改訂版「扶桑社版教科書」を出版しています。おそらくこれらの教科書執筆にも関係しているでしょう。私は自虐史観という言葉は好きでないが、第二次世界大戦ではアメリカも明確な戦争犯罪をおこなっていて、しかも現在に至るまでそれへの反省がないと思っています(日米地位協定もそう。日本はいまだアメリカ軍の従者なのか?)。しかし、日本がアジア諸国でおこなった侵略や虐殺行為の非道を決して隠蔽することはできず、痛切な反省が必要だと思っています。意図的に南京虐殺やフィリピン、シンガポールで日本軍が起こした残虐行為を矮小化しようとする論調には、耐えられない不快感があります。「自分たちがされたんだから、俺たちだってしたって何が悪いんだ?」という卑しい態度は、人間としていかがなものか?少なくともそういう下品な根性は自分として受け容れがたいです。そういう無反省な態度をとる日本人がいるから、いまだにインドネシアやフィリピンは日本への恨みと反感を持っている。その意味で小早川秋聲はアジア各地への従軍で、この戦争の悪というか矛盾点を痛切に感じていたのでないか。小早川が描く兵士の姿にはまじめで実直な精神性と同時に軍の中で働くという運命に逆らうことができないことへの悲しみが素直に表現されていると、私は感じます。「軍神」として献納されたこの絵にも逆らえずに犠牲となった兵士への小早川の痛切な哀悼があり、それを敏感に察知した陸軍省に忌避されたのでないか(そもそもHiroshi Adachi氏には、なぜこの作品が陸軍から拒否されたのかの分析がない。)。私が思うに、顔にかかる日章旗が理由でしょう。本来ならご遺体の顔にかけるのは白布です。ここで白布の代わりに掛けられた日章旗ですが、その寄せ書きには必ず「武運長久」と書かれていたはず。しかし、戦死ということは長久でなかったということ。この痛烈な皮肉には秋聲の強い意思が込められており、それを感じた陸軍の怒りは並々ならぬものだったでしょう。さすればと小早川は桜などの装飾をかなぐり捨て、遺体と直面する構図にして「國之盾」と改名したのでないでしょうか。非常に微妙な題材ですが、史実を遺す絵画としてだけでなく芸術性も高く、後世に残したい作品だと強く思います。それにしてもいわゆる自虐史観とやらで真面目に海外との交流をする者を揶揄するヤカラたちの矮小で貧しい精神性に呆れます。もしHiroshi Adachi先生からこんな歴史観を話されたら、小早川秋聲は殴り倒しただろうと思います。「軽薄な感傷で知ったような口きくな」とね。

日常考えたことを書きます