「あえてのオチャラケだったのに」〜機能不全家族が履かせる「赤い靴」
今回はまた読売新聞の「小町」からです。読み終わった後、深いため息が出ました。「世間にはこういう家庭が、想像以上に多いのでないか」と。
トピ主の相談を引用します。
あえてのオチャラケだったのに
ぬーとりあ
2024年5月29日 12:25
ひと
30代女性、社交的で活発、いわゆる陽キャだと思います。
職場や友人関係でも、自分の言葉が周りに与える影響を自覚していて、明るく振舞います。
周りがどんよりしてる時ほど、自分が頑張って盛り立てなければ!とスイッチが入ります。
最近のことです。
職場でこのところ連絡ミスが相次いでいて、自分が関係している時もあれば、同僚のミスのこともありました。
あわや顧客に大迷惑がかかるところで、上から怒られ、改善案を出すようにと。
職場内の空気が重くなり、ましてや同僚が泣きそうになっていた為、盛り上げようと「顧客の口塞ぎをする!何か言われる前に、全員で逃げる!辞表をちらつかせながら、話を聞く!」等など幾つか、誰が聞いてもオチャラケと分かる発言をしました。
そうしたら、その同僚から冷たい目で見られ、「もう、二度とそういうの、無しにして」と。
びっくりして黙り、そのあとの話し合いで発言する気持ちになれなくなってしまいました。
それから、その同僚と気まずくなっています。
それで思い出したら、昔にも、友人関係では、失恋や受験の失敗や親とのトラブルの話を聞いた時の自分の盛り上げ方がよく思われず、怒られ、疎遠になったことがありました。
でも、私は重い空気が耐えられず、何か明るい話をしてあげたくなります。
それに、相手が泣きそうになると、なんとかしてその涙を出させずに済むように!笑って!!と頑張ってしまいます。
(相手が泣くのを見ると、ぞわぞわします。自分の好きな人ほど、そう感じます。)
でも、それで相手が怒るなら逆効果で、結局は失敗だったなあと。
どこまでがセーフで、どこからアウトなのか、線引きの基準はありますか?
早速厳しいコメントがつきます。
結局は自分のためだから
さらり
2024年5月29日 16:03
>私は重い空気が耐えられず、何か明るい話をしてあげたくなります。
貴女は相手のことを思ってオチャラケているように言いますが、実はご自分が重い空気に耐えられなかったり、相手に泣かれるとどうすれば分からないから、そういう行動をしているだけです。
だから何度も同じ失敗を繰り返すのです。
要するに空気が読めないんですね
冬美
2024年5月29日 17:56
>それから、その同僚と気まずくなっています。
実際は、その同僚だけでなく職場の人全員と気まずくなってると思いますよ。私がその場にいたら、「こんな時までふざけるの勘弁してよ…」と呆れて、気持ち的に距離を置きますね。
周りがどんよりしたり空気が重くなるのには、そうなる理由があるんです。それに耐えられないからっておちゃらけたり、明るい話題に変えたり、無理やり笑顔を作らせても、根本的な解決にはなってません。まず真面目に原因を突き止め問題を処理することが先。
「改善策も決まったことだし、気持ち切り替えてまた頑張ろ!」
と励ましたり、冗談などを言って明るく盛り立てるのはその後にやることですよ。
なんで自分もミスしたのにふざけてんの?
Mariko
2024年5月29日 19:56
飲み会とかならまだしも、仕事での重大なミスがあった場所で陽キャってふざけすぎじゃないですか?
事の重大さを痛感している同僚さんと違って、トピ主はなんにもわかってなさそうですが。
30代でいつまでもそんなままじゃいつか取引先相手でボロが出ますし、「あんなふざけた奴がいるならおたくとは取引しない」とか言われかねないです。
KYな女ということで、糾弾の嵐ですね。しかし、こんなコメントもありました。
トピ主さんは周りを気遣える素晴らしい人ですね。
みみ
2024年5月29日 19:07
文章を見て思ったことはトピ主さんは周りの状況を読もうとして自分なりに明るくしようと振舞ったり気遣える素敵な人なんだなと思いました。
恐らくお笑い芸人ようなプロの人達と違って笑いの感覚が他の人と違うのかもしれません。プロは万人受けするようなネタを言いますが、トピ主さんの振る舞いはどちらかというと滑っているような感じなのかな??
なので、ミスした側からしたら真剣にミスしたことへの罪悪感と向き合い、今後どうしようかと悩んでいる時に、トピ主さんの発言を耳にするとバカにされたような気持ちになるのではないでしょうか?文章を見るとトピ主さんが悪気があって言っている訳でなく皆を明るくしようと発言していることが分かりますが、実際の場ではトピ主さんの意図は伝わりにくかったのかもしれないです。
同僚の方には、トピ主さんの気持ちを伝えてみてはいかがですか?「悪気があった訳ではなく、少しでも皆に明るくなって欲しかった。不快にさせてしまって申し訳ないと...。」
トピ主さんの意図に同僚は気付いてないと思います。こういうのは伝えなくては伝わらないと思います。
線引きですが、こればっかりはその場の空気を読んだり相手のことをもっと知る必要があると思います。人によってはアウトなこともあれば、セーフな人も居ます。
今回ので同僚のアウトラインはなんとなく知れたと思うので、少しずつ人と関わり知っていくしかないと思います。
トピ主さんは根は凄く優しいし思いやりのある方だと思うので、凄く勿体ないと思いました。誤解されやすいのかな?と...。誤解された場合は、伝えることが大切だと思います。応援しています!
このコメントみたいに「すばらしい気遣いのある人」とは私には感じられません。何か病的な雰囲気がトピ主の背後にありそうです。ここでトピ主が語ります。
トピ主のぬーとりあです。
ぬーとりあ トピ主
よろしかったら「ぬー!」と呼んでください笑。
レスをありがとうございました。確かに、今回は私も当事者で、なんなら同僚よりも重大なミスをしていたので「お前が言うな!」な空気になったと思います。
でも、それだったら、はっきり「お前が言うな!」「やってられん!!」的な明るいやり取りの方がよかったなと。
同僚から、信じられないものを見るかのような目つきをされ、切り捨てられるような言い方をされたので、こちらから話しかけるのが怖くなりました。(それくらいの空気は読めます。)
重い空気に耐えられるようになる方が先、というレスには、目からウロコがポロポロ落ちまくりました。
自分がなぜ、いまにも泣きそうな人と圧にぞわぞわするのか、ですが。
よくよく考えると、結局、その人が発散する「悲劇のヒロイン」「主人公は私」感にぞわぞわするんじゃないかと。
今回の場合も、同僚が責任を重く受け止めたのはいいんですけど、泣いていち早くその場の主人公になってしまう。
すると周囲は、「あなた一人が悪いんじゃないからー」的に茶番みたいなお約束を一通り言わないと収まらない空気が苦手です。
過去の友人から提供された、失恋、受験の失敗(浪人)、親との確執、身近な人の治りにくい病気といった打ち明け話の場合は。。。
聞いているうちに、その話をしている相手と自分を、幽体離脱して別の角度から見ている自分を感じてしまい、その場面に集中できなくなりました。
時々は「ミュージカルだったら、ここからは歌だな」と一人心の中で思ってしまう自分もいて、それで「元気を出しましょう~♪」と声を掛けているつもりでした。
もしかしたら、自分は人に寄り添うことが苦手なのかもと。
「ミュージカルだったら、ここからは歌だな」なんて聞くと、今春のテレビドラマ「不適切にもほどがある!」を思い出してしまうけど、あれはあくまでも「劇」です。現実にシリアスな場面で突然歌い出す人がいたら、「このひと正気かね?」となるでしょう。しかし、トピ主の行動はそれに近く、だからこそ周囲の違和感が半端ないのです。
またこの状況で「ぬー!」と呼んでくれる人、いるかな?トピ主に好意的なメッセージなんてほとんどないのに、やけに親しげな語りかけが気になります。実際こんなコメントが。
真面目にレスしたのにな…
しらす
「ぬー!」と呼んでください笑。ですか…
お互いふざけてるなら全然いいんですよ。それか駄トピの括りであれば。
でも真剣に取り組んだ事をからかわれたり、はぐらかされたり、って
掲示板だけの関係とは言え悲しくなりますよ。
更に言えばイライラもします。
他の方のコメントを見れば分かると思いますが。
トピ主さんは真剣な場面でからかわれた事はないんでしょうか。
どんな場面でも(自分が病気になったり、大事な人が亡くなったりしても)からかわれても平気なんでしょうか。
もしかして真面目にする、真剣に取り組む事の経験がなくて分からないんでしょうか。
「価値観の違い」と言うには何か違うような気がして、トピ主さんの思考が理解出来ません。
幼少期、学生時代、いつからおちゃらけたのか、
ご両親から何も言われなかったのか、
トピとは関係ないですが気になりました。
「ぬー!」と呼んでほしいという言には、相手との心理的距離の取り方にズレが感じられ、愛着障害を感じさせます。
すると、ぬーは告白します。
レスします。
ぬーとりあ トピ主
レスをありがとうございます。
周りの誰にも言えないので、恥を忍び、真面目に書きます。
私の育った家庭は、両親が不仲でした。
6つ上の姉がおりましたが、姉は成績優秀な上、面倒見がよく、両親のそれぞれから可愛がられると同時に、それぞれから愚痴を聞かされ、冷戦時には伝書鳩のようにお互いの伝言を伝えさせられたり、成長してからは家のイベントを姉が立案・実行して家庭内の見掛け上の和やかさを保たせていました。
母がメンタルを病んで家事が疎かになってからは、姉が炊事洗濯掃除、果ては私の面倒も見るようになりました。
私は両親からは期待されておらず、可愛くいれば良い、愛嬌があれば良い、という感じでした。
姉が時々、私を相手に「今後この家はどうなるのか」「私、将来どうしよう」という類いの重い話をしてきたのですが、私はそういう話を聞くのが怖く、姉に泣かれたらとても困るので、全然わからないふりをしたり、冗談ばかり言って笑わせていました。
姉の話をまともに聞く気になれなかったのには、もしちゃんと聞いてしまったら、姉の役割の何割かを私も受け持たないといけないので、全力で回避したかったのかもしれません。
姉が成人して家を出た時に、両親は離婚しました。
姉は就職とほぼ同時に結婚し、家庭と仕事を両立させながら、母の面倒も見ているようです。
その話を姉が私にしきりにしたがるのですが、私はあえて茶化して聞かないことにしています。
私の方は、父方の祖父母の元から学校に通い、再婚した父の家庭にも出入りしています。(姉は来ません。)
祖父母の元でも、私は可愛く・面白く・明るくいれば良いので、それを心がけていました。
こういう生き方が、壁にぶつかって、どうにもならなくなっているように思います。
嗚呼、やはり深刻な機能不全家族の中で育ったのか!不仲な両親を取り持つ役がこどもたちに押し付けられ、「ヤングケアラー」として不自然な重い役目を担い続けてきたのがよくわかります。せめてお姉さんと相談しながら耐えていけばよかったのですが、「ぬー」には姉に対する劣等感もあったのでしょう。それに不自然な家族状況を理解するにはあまりに幼すぎたと言えます。精神発達が止まったままの状況は現在も続いており、姉とも疎遠なまま、そして今回の相談内容となって表出しました。「ピエロ」となって永遠に道化のまま踊り続ける運命になっています。僕が思い出すのは、アンデルセンの童話「赤い靴」です。wikiから引きます。
貧しい少女カーレンは、ずっと病気だった母親と二人っきり。ある日、靴を持たない彼女は足に怪我をしたところを靴屋のおかみさんに助けられ、赤い靴を作ってもらう。その直後、看病も虚しく母親は死んでしまった。孤児のカーレンは母親の葬儀に赤い靴を履いて出席し、それを見咎めた老婦人は彼女の境遇に同情して養女にした。
恵まれないカーレンは親切な恵みの赤い靴に自分の唯一の存在価値を見たのでしょう。
老婦人のもとで育てられたカーレンは、町一番の美しい娘に成長した。ある日、靴屋の店先に綺麗な赤い靴を見つけたカーレンは、老婦人の目を盗んで買ってしまう。戒律上、無彩色の服装で出席しなければならない教会にもその赤い靴を履いて行き、老婦人にたしなめられる。それでもカーレンは教会に赤い靴を履いていく。老婦人が死の床についているときにさえ、カーレンはその靴を履いて舞踏会に出かけてしまう。すると不思議なことにカーレンの足は勝手に踊り続け、靴を脱ぐことも出来なくなる。カーレンは死ぬまで踊り続ける呪いをかけられたのだった。
夜も昼もカーレンは踊り続けなくてはならなかった。カーレンが看病しなかったばかりに亡くなった老婦人の葬儀にも出席できず、身も心も疲弊してしまう。呪いを免れるため首斬り役人に懇願して両足首を切断してもらう。すると切り離された両足と赤い靴はカーレンを置いて、踊りながら遠くへ去っていった。
義足を作ってもらったカーレンはこれまでの自分を恥じ、不自由な体で教会に住み込みでボランティアに励む毎日を送る。一回は悔い改めたと思い教会へと行こうとして踊り続ける赤い靴に阻まれ、再び己の罪を自覚するも、孤児やシスターから厚い信頼を受けながら、カーレンは充実した毎日を送る。
引き取ってくれたにもかかわらず老婦人へ恩返しができなかった懺悔の祈りを捧げていたある日、突然足を踏み入れる事すら出来なかった教会へと場所は変じ眼の前に天使が現れ、罪を赦されたことを知ったカーレンは、天へ召されていった。
「ぬー」が言う「可愛く愛嬌がある娘」は両親に愛された結果ではありません。親たちの鬱憤晴らしのために迎合する「演技」に過ぎず、彼女は家族の中でずっとサーカスのピエロを演じていたのです。大人になったはずの「ぬー」はもはや「赤い靴」となったその演技の呪縛から抜けることができず、業火に焼かれる中踊り狂っているとしか思えません。自分の感情を「幽体離脱」というのも、一種の「解離性障害」と私は感じます。
「ぬー」は小町のトピを「このトピックはレスの投稿受け付けを停止しました」と、自己都合でコメント受付停止にしました。きっと殺到するコメントの非難の嵐に、心がずたずたになったのだと思います。
前も小町の相談でこんなのがありました。
妻が子供を置いて出て行きました 〜虐待家庭の育ちでないか
こちらは男性ですが、まったく同じ状況でしょう。世の中にはこのような残酷な親に育てられ、永遠に狂った世界観の中でのたうち回るこどもが一体どれくらいいるのか?アダルトチルドレンとして苦しむ姿を思うと、暗然とします。しかもそういう親たちに限って、こどもが過去のことを言うと「自分たちはなんにも悪くない。育ててもらったのに何と恩知らずな奴なんだ!」と憤るはずです。自分たちの醜く浅ましい所為が、いかにこどもの人格を破壊するか永遠にわからぬまま、あの世に逝くのでしょう。もし、神がいるならばそういう親たちを未来永劫、地獄の業火で罰し続けることを祈ります。しかし、そんな非道い親でも子どもが慕い続けるのも事実です。読んでいてとても苦しい気持ちになる「小町」でした。
なお「赤い靴」のカーレンは、アンデルセンの姉がモデルと言われます。最後にwikiを引きます。
東京理科大学准教授・中丸禎子は論文で本作に言及している。それによると主人公のモデルはアンデルセンの異父姉カーレン・マリー(Karen Marie, 1799-1846)である。彼の母が、結婚前に私生児として生んだのだが、アンデルセンはカーレン・マリーの存在を恥じて隠そうとした。彼にとってカーレン・マリーは退廃、無知、乱交の象徴で、その存在が自分を貶めることを恐れた。
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