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「置かれた場所で咲きなさい」2 〜渡辺氏を真似できないこともある

「置かれた場所で咲きなさい」1 〜渡辺和子氏の生涯
龍土軒 〜また行きたいフランス料理名店


この写真はメディアにもよく出る有名なもので、写っているのは成蹊学園の小学生だった渡辺和子氏と父・渡辺錠太郎氏です。この親子がとても仲が良かったことは、この写真一枚でよくわかります。しかし、1935年8月にこの写真を撮ってわずか半年後の1936年2月、渡辺錠太郎陸軍教育総監は二・二六事件で惨殺されます。


 本書では「神は力に余る試練を与えない」という章があります。渡辺和子氏は果たして父親の暗殺という無惨な結末を、「受け入れて」いたのでしょうか?本書には書かれていませんが、難しいところだと思います。後年、渡辺さんは二・二六事件で銃殺刑となった陸軍青年将校の遺族達と会う場面が何度かありました。父親を殺害した当事者ではないとはいえ、渡辺和子氏は平常心ではいられなかったことを率直に語っています。「こころのもちようを変える」という渡辺さんの言葉は、そうしたいという「努力目標」という理解でいいのでないかと、私は思います。


 仏教でいう「煩悩」は悪い事でしょうか?私は人間から煩悩を取り去ることはできない、というより煩悩で人は成り立っていると思います。神になることは所詮不可能です。2024年1月の能登半島地震で自分を除く妻、子供3人の家族全員を一瞬で失った警察官の大間圭介さんの気持ちは、察して余りあります。何も悪い事をしてないのに家族全員が死んでしまう。2015年埼玉県熊谷市で、妻と小学生の娘2人をナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタンによって惨殺された小川泰平氏は、現在どんな気持ちで家族がいない自宅で暮らしているのか。しかも10歳の娘はナカダによって殺される前に性的暴行を受けています。そういうひとたちを前に、「神は力に余る試練を与えない」とは少なくとも私は言えません。災害にしても殺人にしてもあまりに理不尽すぎて、言葉がありません。その怒りや悲しみの気持ちはとても人間らしいものです。いつかその感情が癒やされる日が来るかもしれないし、死のその瞬間まで続くかもしれない。どちらであっても、否定も肯定も他人にはできません。


 渡辺和子氏の生涯は両親の深い愛情に包まれており、その愛の支えを基として人生を全うしたと思います。しかし、世の中には残念ながらそういう愛をもらえない不幸な子供も少なくありません。そういう人には、大人になってもこの書で書かれた渡辺さんの言葉が虚しく聞こえるのは仕方ないことかもしれません。「置かれた場所」が最初から貧しい土壌だったら、せっかく種が芽吹いても枯れてしまうでしょう。そういう枯れた苗をこころに抱える人は、どうしたらいいのか?渡辺さんはその問題には答えを出しておりません。あくまでも、子供時代に恵まれた生活だったひとに、この書は指針となります。突き放した言い方となりますが、渡辺さんは神ではありません。あくまでも彼女が自分の経験で知り得たことのみを語っています。