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入学=卒業を要求される日本の大学 〜文科省の頑迷固陋

ポワール

益 一哉氏

電子通信工学者。学位は、工学博士。東京科学大学名誉教授、産業技術総合研究所量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター長。東京工業大学第20代学長)


東工大の最後の学長だった益一哉氏がAERAのインタビューに応じて、興味深いことを述べています(東工大は東京医科歯科大と合併して、東京科学大になりました)。一部を抜萃して引用します。


東工大・元学長「ワークショップもAO入試のため」に落胆 「偏差値主義」の日本の大学と文科省にモノ申すワケ

4/22(水) 8:30


大学の受験勉強のためには、公教育では不十分で、塾に頼らざるを得ない――。そう考えている保護者や教員は多いのではないか。東京工業大学(現・東京科学大学)元学長の益一哉さんは、「入試制度を変えても、本質的な状況は大きくは変わらない」と言う。

 人によっては義務教育の小学校、もしくは中学校から始めた塾通いと受験勉強の最後の関門といえば、大学入試だろう。受験戦争が取りざたされた1960年代後半~70年代ほどではないにせよ、いい大学に進めばいい企業に入社でき、高収入を得られる――。そんな価値観はいまも多くの人に根付いているのではないか。


 人気大学では合格最低点ラインに多くの受験生が集中し、たった1点差で合否が分かれる「1点差入試」といった状況が生じがちだ。だが、果たしてそれは意味のあることなのか――。


 産業技術総合研究所の量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター長で東工大元学長の益一哉さんはこうした状況に以前から問題意識を持っていた一人だ。


 東工大学長時代には、1点差による選抜から脱却すべく、総合型選抜枠を拡大し、新たに「女子枠」を設けた。その理由を、野球チームづくりに例えてこう説明する。


「筆記試験による大学入学者選抜は、100メートル走で足が速い人から順番に選んで野球チームをつくるようなものです。足の速い人だけを集めても、必ずしも強いチームにはなりません。球を投げる人、打つ人、持久力のある人、チームをまとめる人など、さまざまな能力を持った人が必要です。大学の人材育成においても同様で、いろいろな評価軸を用いて、人材を集めることが重要だと考えています」

高校までの初等・中等教育と大学・大学院の高等教育でもっとも異なる点は、「高等教育では教育効果の一律・共通な評価基準は存在しない」ことでしょう。高等教育では探究というか答えが見つかってない未知の領域の解析が中心なので、学び方も教え方も多様です。だから学生も教員も適合する専門領域や能力がさまざまであって当然です。しかもそれは最初からわかってるわけでなく、進み始めて徐々にわかる。従って「やってみたけど合わなかった」は当然あり、そこからまた違う領域の模索に入って普通でしょう。そもそも大学を中退するのは、他人様にはとても言えない悪の所業なのかね?


入試を突破したいというニーズは常にあり、塾側は制度の変化に適応し、一定の成果を出すための指導を行う。多くの生徒が塾を頼ることについて、益さんは、ある程度は致し方ないと思っているが、複雑な思いも抱える。東工大学長時代、こんな経験をした。

 東工大は科学や工学を身近に感じてもらうべく、高校生を交えた多数のワークショップを開催していた。益さんも高校生とともにテーブルを囲み、意見を交えた。

「会場は盛況で、男子高校生だけではなく、女子高校生も一定数いた。理工系希望の女子学生が少ないことは指摘されていましたから、『東工大もなかなかやるじゃないか』と思いました。ところが、高校生らにワークショップに参加した理由を尋ねると、『AO(現・総合型選抜)入試に有利になるから』と、塾に勧められたという声が多かった。われわれの意図とは異なるかたちで活用されていると、複雑な気持ちでした」

これは仕方ないかな。東工大の高校生相手のワークショップはいかなる形態だったか知りませんが、高校生はオープンキャンパスの一環と捉えたのでないか?今私大を中心にオープンキャンパス参加は年内入試で特に推薦入試を受けたい受験生の評価基準のひとつになっています。企業就職前のインターンシップや病院研修のマッチング前の見学会なども、ある程度採用審査の参考にされるので、益氏から「意図が違う」と言われても受験生も困ります。


■世界と日本では評価軸が違う


 益さんは、受験対策のノウハウや偏差値を軸にした大学評価のあり方に懐疑的だ。

「日本人の大学を評価する視点に原因があると思います。日本の『大学のランキング』は、入学した学生の偏差値ランキングになっている。しかし、世界の大学ランキングは違う。海外のランキングは、どのような人材を社会に送り出したのか、そして研究機関としてどのような成果、インパクトを産み出しているのかという観点が重視されます」

 世界の大学ランキングの一つ、「THE世界大学ランキング」(Times Higher Education)は教育、研究、国際性、産業界との連携などを複数の指標をもとに大学を評価する。

THEの評価は英語圏の大学の捉え方に偏っているきらいはあるが、「大学の育成力」の評価です。一方、日本の受験予備校が評価するのは「入る難易度」だから、直接は何も関係ないのでないか?高い潜在能力があることはアドミッションの評価対象ですけど、入ってからそれが発揮されるかどうかはその人次第です。成功する学生もいるけどダメとなってドロップアウト(留年・退学)する学生も相当数いるのが欧米の大学の実情です(ハーバード大は例外的に90%以上が6年以内に卒業だが普通は60%台)。だから「THEで東大より上の評価の大学」に入学許可されても、育成対象になれるかはまた別。無論中にはJ.F. ケネディ(ハーバード大)G. ブッシュ(イェール大)のように学業が振るわない劣等生で卒業できてしまった者もいます。しかし、それはアイビーリーグが私立大学だから!お金と権力は別扱いの世界ですから、有力者のパパが日本円で100億円くらいは軽く寄付して「息子をよろしく!」してくれたわけですよ。しかし、彼らは政治力という学力でない面から大いに結果を残しました。日本ではまずなさそうな事例だけど、これも大学の学生評価が一律でなくていいことの表れでないか。


 話は戻ります。

■人間の成長をどう捉えるか


 益さんは、日本の偏差値重視の背景には、文部科学省による定員管理のあり方も影響していると指摘する。

「これまでの制度は、入学時の学力を重視する設計になっており、『学生を育てる』という大学本来の役割に対する視点が相対的に弱くなっていると感じています」

 益さんは学長時代、文科省に「入試の間口を広くし、入学者数を増やしてもよいのではないか。大学では学生の学びの状況をきちんと評価する」と、訴えてきたという。冒頭で書いたように、入試でよい成績を収めた生徒が、優れた研究者や技術者になるとは限らないからだ。

「入学の間口を広げることで、多様な学生に学びを提供でき、大学にとってはそちらのほうが重要であると考えていました」

益氏の発想はまさに欧米の大学制度の考え方です。ところが

それに対して文科省は、「卒業できる人を入学させるのが入試。卒業可能性を重視するのが入試である」と、提案は受け入れられなかったという。

文科省は以前から大学に対して入学定員の管理についてうるさく言ってきていますが、最近「中退率」についても調査・公表せよと指導してきています。要するに途中でドロップアウトする中退者が多いことは教育として悪いことなので、なるべく少なくしろということなのでしょう。親からすれば入学した以上はちゃんと卒業して学位を取ってほしいと思います。授業料を払っているからそう思うのはスポンサーとして自然ですが、こどもの成長や指向性は親にも見通せないのは事実です。これは思春期に入った子どもを持つ親なら自明のことでしょう。高等教育ともなれば上記のような事情があるので、トライアルアンドエラーを受け容れないとなりません。文科省は親でもないからそれで当たり前と思うべきですが、どういう発想でこんなこと強要するのだろうか?

益さんは納得できなかった。


「入学時点だけで人を評価するのではなく、その後の成長も含めてどう捉えるかという視点が重要です」


 入学時の成績と卒業時の成績に強い相関があるとはいえないことは、大学入試センターを始め、さまざまな大学の研究で指摘されている。

「入学時に優秀であっても、その後、伸び悩んでしまう学生がいれば、大きく成長する学生もいる。大切なことは、大学でいかに学ぶかです」

 益さんは、「多様な人材を受け入れること」も大学の役割だと話す。なぜ、多様性を重視するのか。

「イノベーションの源泉は多様性にあるからです。革新的なことは画一的な集団ではなく、多様な人が集まるなかで起こりやすい」

 塾に通って中学、高校と進み、大学の門をくぐる若者たちは、学問の府でどのような学びを得て、成長し、社会に出ていくのか――。立ち止まって考えてみるのもよいかもしれない。

益氏の意見はごくまっとうだと思います。これは受験生やその保護者に向けてというより、文科省こそが指弾を受けるべきことです。文科省の「護送船団方式」的な高等教育の指導は根本的に間違っています。わずかな入学試験の範囲で高等教育での適性をすべて見抜くのは無理で、「潜在的に力がありそう」な学生を入れてあとから真の適性を判断していっても問題ないでしょう。その適性判断の過程には大学の教員だけでなく、学生自らもおこなう双方向の検証があると思います。中退しても今多くの大学は他大との単位互換制を採用してるから、取得した単位がまったく無駄とはなりません。もし文科省が本当に日本の大学の国際的な力を求めるなら、益氏の主張を全面的に採用すべきだと私は思います。


 ヤフコメを見てみます。

臥薪嘗胆


私自身も東工大出身の研究者の端くれだが、偏差値至上主義が良くないのはわかる。

同質的な人間しか集まらず、イノベーションが起きないというのはまさにそうだろう。

しかし、では欧米のように「多様性」を重視して、いろいろなバックグラウンドの人を取ったときに、「成績が著しく悪い人をちゃんと落とせるか?」というのは一つの視点だと思う。今どきは学生だけでなく親も大学に乗り込んでくる時代。日本は社会的に極めて同質性を求めるから「留年」もかなり忌避される。

欧米では入ってからが厳しく、能力がないと判断されればF(fail)である。同程度の水準で大学に入った後に育てられるかは気になる。なーなーで卒業させないようにしてもらいたい。

chi********


海外の多くの大学や、日本では東京理科大などもそうだが、学業に本気にならないと卒業が難しい大学であるなら一般入試でなくても良いとは思う。総合型選抜(旧AO方式)であろうと、大学の求める素養を持つ学生の受け入れで構わない。

でも今の大学は「入ってしまえばこっちのもの」で、卒業があまりにも容易に過ぎる。また就職においては企業の学歴フィルターが実際に存在するのだから、不公平感をもつ学生が生まれてしまうのも分かる。

ええ、その通りです。文科省の中退率下げの強要がおかしいのです。

tak********


正直大学が求める「多様な人材」は大学院でやればいいと思う。18歳で多様性を求めても結局親ガチャになって最終的には似たような人しか集まらないし、波乱万丈な経験積んだ人は学力が足りないことが多い。

理系の一定以上の大学の場合は院に進むのが当たり前だし受験者もそこまで多くないから、院入試には大学も時間をかけてじっくり評価できる。受験生も落ちても学部は卒業できるから詰むこともない。

欧米型を目指すのなら学部はもっと教養の時間増やして専門教育は院からとかカリキュラムを変更することも考えて入試方式を変更したほうがいいと思う。

親ガチャの意味がよくわからんけど、ある程度金がある層だから多様性がないということ?それは違うでしょう。今は大学院入試の受験者が少ないので、東大・京大クラスでもなかなか落とせないところが多い。じっくり評価なんて聞いたことないよ。教養課程の強化は賛成だが、それと入試は関係ないでしょう。


sfb********


旧東京工大(現科学大学)は絶妙のタイミング(大学統合)で益一哉さんを学長にいただいたのだと思う。約50年前に始まった〈共通一次試験〉の導入以来、〈センター試験の高得点〉を持ってはいるが、東大には届かない〈都心進学校〉の受験生が東工大に志望校を変更し、東工大二次筆記試験の難問の数学で殆どゼロに近い点数ながら〈センター試験の高得点〉のおかげで大量合格していたのだ。そういう学生は数学力が低く、東工大の講義にも高いモチベーションを持ってはいないので大問題だった。それを解決すべく〈センター試験の点数を合否判定には加算しない〉と変更されたのだが、今度は、東工大のセンター試験は、最低レベルでパスすればいいから、〈東工大は国語・社会はノー勉でいい〉という受験産業界のミスリードを生んでしまった。文科省は弊害を認識すべきだ。

益一哉さんの願いは〈高いモチベーションを持つ、第一志望の学生〉を選びたいのだと思う。

これはどうかな?だったら東工大は二次数学を受験生レベルに合わせて点差が出る出題にすべきだったでしょう。それをしなかった方が問題。しかし、これ違うのでないか?東工大は確か共通一次の初期から二次試験の成績のみで選抜していたと記憶します。私が知っているのは、東工大が後期入試を実施していた頃、センター試験の成績だけで選抜していた時期があったことですが?


tsu********


多様な人材を取るのは良いけど、じゃあ大学側にその多様な人材を活かせる環境はあるのか??受け入れ側のカリキュラムがまだ「一般入試を突破した均質な学生を育てる」領域から脱却できていない。でも多様な学生、特に一般入試レベルの学力も無い学生1人1人に対応するカリキュラムなんて組めないから、そうしようとすると個別対応が増えてただでさえ忙しい現場は疲弊する。

この方も文科省と同じで、「入学=卒業」の発想が抜けていません。大学としてカリキュラムやディプローマポリシーを提示してるから、それに合致した教育を提供するまでです。合わない学生はアドミッションポリシーに合致していたとしても残念ながら去るしかない。


genronkawasimo1981


昭和の時代に塾のカリスマと言われた伸学舎(入江塾)の入江伸先生(塾の選抜試験をしないのに、入学定員50人の灘高校に30人の合格者を出したりした。)は、中学受験指導をやらない理由として、「エリート中学入試問題は、大半が、受験生が自分自身の思考力で十分論理的に問題を分析・考察するだけの時間的余裕を与えていないので、主体性が十分に育っていない小学生は、この問題はこう解く、あの問題はこう解くと、あらかじめ教えられた解法のテクニックをスピーディーに要領良く発揮するということを強要される上、やれケアレスミスはすべからずなど『べからず集』を押し付けられるので、小学校高学年から中学にかけて心の底から湧き起こってくるはずの探究心が十分に醸成される前に潰されてしまうから。」と言っていたな。

入江先生の指導は小学生相手でしたから、すごいですね。その教育でその後も(大学卒後も)ずっと伸び続けた者が多いように感じます。

epsilon


偏差値重視といっても,「たかが中等教育の力比べ」だ。それくらいはきちんと習得できる人間でないと,とくに研究者になる基礎要件を満たしていないと私は思う。

じじつ,研究者を生産できるのは,入試難易度が高く大学院をもつ大学ではないか。本記事の元学長先生自身はどうだったのか。私も定年退職までに3校の国立大学に勤めたが,出身は東京大学理学部・理学系大学院だ。

私が高校生までに後年の素質があったかどうかは,かなり否定的だ。もし推薦入試しかなく志望理由書を書かされたら,私は落ちる(教員の目で見て落とす)。専門課程への進学振り分けでは第三志望の分野に進んだし,学位は理学博士ではなく後年に得た文理融合の学術博士だから,めちゃくちゃだ(笑)。ただ,必死に走り続けてきたことは確かだ。


私は,大学入試で「母集団の多様性」を求めてはいけないと信じる。多様性は,大学,大学院,人生を通じて個々が伸ばすものだ。

epsilon氏は残念ながら旧い世代のひとです。このまま少子化が続けば、epsilon氏の母校東大といえども学生の質担保を一般入試ではできなくなりますよ。その時になって慌てて選抜法を見直してももう遅いでしょう。そもそも東大の進振り自体が制度として旧態です。なぜ大学に入ってまで履修科目の総合成績で優劣を競わされるの?それって大学受験の繰り返しに過ぎないよね?走るって何処に向かって走ったのですか?同じ方向に走らされるなら、それで素質が開花したって思うこと自体が幻想に感じます。確かに東大理学部にもノーベル賞受賞者はいますが、「研究者を生産できるのは,入試難易度が高く大学院をもつ大学」だけというわけでもない。


fw1********


戦前からずっと続いている「学歴編重」のせいだろ?旧日本陸海軍だって士官学校・兵学校で何巡目で卒業したかが?全てに於いて威光となった。前線でどんな活躍をしてもその卒業順位をひっくり返して昇進することは出来なかった。

官僚制度だって、キャリア採用かノンキャリアかで昇進が決まるし、大手の一流企業も学閥やその縁故を大事にしてるよね。「実力主義」って日本ではかけ声だけだよ。

epsilon氏もそうですけど、東大や文科省の発想は「イギリスとかの旧植民地で優秀な官僚となる学生を選抜・育成するための現地人の教育」精神でないか?要するに大人しく上の言うことを聞いて、決められた序列を生涯守って宗主国に奉仕していく奴隷精神の生き方と思います。生き方に主体性が感じられない。明治時代から続くそういう教育精神を抜本的に変えるのには、まず旧弊の文科省を解体することからでないでしょうか。この役所の現状、現代の高等教育には要らんわあ。

日常考えたことを書きます