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仏文学者・内田樹さん 〜緊張の味、修行の本質悟る

ポワール

(内田樹氏(右側)と合気道の師・多田宏氏(左側) 日経から)


桜蔭や開成に受かった子を「親がお尻を叩いたおかげで合格しただけ」〜ディスる親の盛大なカン違い


神戸女学院大名誉教授でフランス文学者の内田樹さんが日経「食の履歴書」の6月のインタビューに答えた記事です。「食の履歴書」いつもは記憶に残った食事が紹介されるのですが、内田さんのは何とも異色な内容でした。引用します。

フランス文学者で神戸女学院大学名誉教授の内田樹さん(74)は武道家としての顔を持つ。師匠の教えである「他人の技を批判しない」の真意が分かるまで、師との食事は味を感じられないほど緊張感に包まれていた。エリート家庭で育った母のプライドを傷つけてしまった思い出とともに振り返る。

師と仰ぐのは合気道の師範である多田宏さんだ。東京大学卒業後の1975年、大学院受験の浪人中に東京・自由が丘の道場の門をたたいた。


入門から数年がたったある日、多田さんは弟子たちに向かって「他人の技を批判してはいけない」と語り始めた。その言葉に驚いた。合気道を始める前から空手を学んでいたが、互いの欠点を指摘し合うことは当たり前だった。「相対的な優劣を論じてはいけない」とも語った。

これ、まったく同感です。道を究めるというか自分を磨いて成長させることに懸命に努力していると、最初は気になっていた他人との優劣が次第にどうでもよくなっていきます。ただ、最初からそれがわかる人は非常に稀だと思います。

「先生との間には圧倒的な距離感がありました」という。入門から10年ほどたった頃、二人で食事をする機会があった。「たしか盛りそばを頼んだんですが、緊張しすぎて味が全くわからなかったんです」と振り返る。胃が縮こまり、消化器が止まってしまったような感覚だった。

喉を通らない緊張の食事を「食の履歴書」として語ったのは、今までに内田さんくらいでしょう!


10年ほど前、イタリア北部で行われた合気道の講習会で師匠に同行した。宿泊先での朝食は野菜やチーズ、ヨーグルトといった質素な中身だ。しかし初めて、師匠との食事をおいしいと感じた。


昔言われた言葉の意味が理解できたからだ。他人との優劣が気になってしまうのは、逆に自己への執着を捨て切れていないということではないか。そのままでは修行は前に進まない。我執を捨て去り、ひたすら自分を鍛える「連続的な自己刷新」。これこそが修行の目的ではないか、と。

理解のきっかけは自分も教える立場になったことだった。学生や弟子とのやりとりを通じて「多田先生が何を考えて接しているかがわかってきました」と話す。優劣をつけず、査定もしない。学生全員に対して等しく関心があり、等しく無関心という絶妙な距離感を師匠の背中を見ながら学んだ。研究室には所属外の学生も多く相談に訪れた。

そう!まったくその通り!この境地は死ぬほど努力して究極を究めようとした者にしかわかりません。私がこどもたちの中学受験の思い出として述べた感想と通底するお話で、まさに「膝を打つ」内容でした。


 ところで内田樹さん、名前だけはよく見てましたが、そもそも何と名前を読むのか知りませんでした。「樹=たつる」と読むのですね。従ってお仕事の方もどういうことをしてきたのか、全然知りません。wikiによると以下でした。

内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本のフランス文学者・武道家(合気道凱風館館長。合気道七段、居合道三段、杖道三段[1])・翻訳家・思想家[2]・エッセイスト。元学生運動家[3]。神戸女学院大学名誉教授。学位は修士(旧東京都立大学・1980年、フランス文学専攻)。専門はフランス現代思想[4]。立憲民主党パートナー[5]。


東京大学文学部卒業。旧東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。


高校を中退したが、大学入学資格検定を経て東大に入学、文学部仏文科卒。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。フランス現代思想を専門とし、大学で教鞭を執る。

??この日経のインタビューでは「日比谷高校」にいた時の話が出てくるが、中退したのか?

食といえば今も悔やむ原体験がある。母方の祖父は東京帝国大学を卒業したエリートだった。母の昌子さんはそうした富裕層の家庭に生まれ、兵庫県の芦屋や夙川、三宮で一流の味を知って育った。


その恵まれた食生活は戦争で暗転する。「戦後は食生活が貧しくなって、母は『こんなものしか食べさせられなくて本当に申し訳ない』と口にしていました」と語る。


かつて自分が食べていた豊かな食事を、子どもたちは一生食べられないのではないかと母は哀れんでいた。料理を熱心に学び、オーブンを買って家庭料理に取り入れたのは、貧しい思いを子どもにさせたくなかったからだ。

単著は70冊を超え、専門のフランス文学にとどまらず活発な評論活動を続ける


入学した都立日比谷高校の男子生徒は「シティーボーイ」ばかりだった。昼食は赤坂で外食するのが日常だ。1年生の時、専門店で食べたスパゲティ・ミートソースの味に「こんなにうまいものがあるのか」と感激した。しばらくして、食卓には母の手作りのスパゲティが並んだ。玉ねぎやピーマン、少量の肉をケチャップで味付けしたナポリタンだった。そのとき思わず「母さん、スパゲティってこんなもんじゃないんだよ。こんなうどんみたいにぐちゃっとしたのじゃなくて、もっとピンとしてて」と講釈を垂れてしまった。

母は珍しく怒った。「私だっておいしいものを食べられるんだったら作るわよ。食べていないんだから」と言い返した。阪神間の高度な食文化に触れ、日本で一番おいしいものを食べてきたというプライドを傷つけられたのだろう。「誠に申し訳ないことをした」。それから60年がたった今も悔いが残り続けている。

この親不孝者め!こんなくだらないことで、ママンを嘆かせるとはなにごと!


日比谷高校中退の経緯はwikiのあとを読むとこうでした。こりゃ中退じゃなくて、「放校」だわな。

来歴


東京都大田区下丸子に生まれ育つ[注 1]。父方の祖母のいとこに、参謀本部作戦課長、陸軍大臣秘書官として東條英機の側近だった服部卓四郎がいる[12][13]。


1963年に大田区立東調布第三小学校を卒業。1966年に大田区立矢口中学校を卒業。1966年、東京都立日比谷高等学校に入学[14]。高校2年で成績が学年最下位になり、のち品行不良を理由に退学処分を受けた[15]。家出してジャズ喫茶でアルバイトをするが、生活できなくなり、数か月後に親に謝罪し家に戻った[16]。


1968年10月、大学入学資格検定に合格。1969年、東京大学入試中止の年に京都大学法学部を受験し不合格。駿台予備校を経て、1970年4月、東京大学文科三類に入学。この頃、三里塚闘争に参加する[17]。東大生となってから学習塾のバイトをしだした。バイト代が時給500円(当時)で国立大学の授業料が月額1000円(当時)だったので一日2時間労働するだけで月謝が払えていた。そのため、月謝以外の稼ぎは両親からの自由を求めて借りたアパートの賃貸費用に充てていた。内田が働いていた学習塾は大学生70人で回してたが25%が過激派の大学生だったとしている[18]。


1970年代初頭に学生運動から離脱[3]。1975年3月、文学部仏文科卒業。1975年12月、合気道自由が丘道場に入門し多田宏に師事(大本教教主輔の出口王仁三郎の曾孫弟子に当たる[19])。1976年に4歳年上の女優と結婚している。妻の父親(岳父)は平野三郎。1977年1月、平川克美と共に翻訳会社「アーバン・トランスレーション」を設立[14][20]。 

1966年の日比谷高校というと、東大合格者数では日比谷高が空前絶後のぶっちぎり1位で(200人超合格!)、無双の時代でした。その後間もなく大学紛争で東大安田講堂占拠事件と東大入試の中止、そして学校群制度導入による都立高校怒涛の大没落と目まぐるしい時代でした。内田氏自身も最初の受験年が1969年の東大入試中止の年で、東大文一から京大法学部受験に切り替えたものの、落ちてしまったわけです。


 なんで日比谷高校を追い出される羽目になったのか、内田氏本人が述べていました。「教育学術新聞」に出ていた内田氏へのインタビューから引用します。

 中学生になって、「新聞記者になりたくなった。たぶんテレビの『事件記者』の影響」。高校は都立日比谷高等学校に進む。67年初夏、ふいに地殻変動の近いことが予感された。「革命前夜に思えた。受験勉強なんか、やってる場合じゃないと思って」高校を退学、家出してジャズ喫茶でアルバイトしたりするが「食えなくなり、12月、親に謝って家に入れてもらいました」。大学入学資格検定を経て69年、東京大学入試中止の年、京都大学法学部を受験するが失敗。

 なぜ法学部に?「高校生の頃は、ずっと法律家になりたいと思っていた。法律学的なものの考え方や書き方となじみがよかったから」

 しかし、1年間の浪人生活を経て70年、東大文科Ⅲ類(文学部進学)に入学。法学部志望はどうなったのですか?「受験の最後の最後まで文Ⅰ(文科Ⅰ類・法学部進学)に行くつもりだったが、突然、非生産的なことをしたくなった」

 75年、東大文学部仏文科を卒業。就職する気はなかった。「学生運動をやってた連中が髪を7:3に分け、スーツを着て就活するのを見て、うんざりしたから。とりあえず大学院に行こうと思った。別に向学心があったわけじゃなくて、よくあるモラトリアム」

 東京都立大学大学院へ進む。「大学院生のとき、友人の平川克美くんと渋谷で翻訳会社を起業した。ビジネスは大成功したが、修士論文を書くときに一線を引いて、それからは研究の方に軸足を移した」

今から思うとイキッた若者(=馬鹿者)の妄想の類いですが、あの当時全世界的に学生運動が吹き荒れ、確かに「世界革命」でも起こりそうでした。私も子供心に東大安田講堂への一斉放水のテレビニュース場面は目に焼き付いています。ウカウカと世界革命妄想に乗ってイキッた内田少年は出奔したもののたちまち「転向」し、受験更生の道に入ったのかと思いきや、その後もかなり反抗的人生だったようです。しかし、日比谷高は「退学処分」だったのだよね?高校時代学業成績が悪いことや学生運動以外にも、なんかワルいことしてたんじゃねーか、内田?くんくん。臭うゾ!


82年、都立大大学院人文科学研究科博士課程中退、都立大人文学部助手に採用されて、8年間。39歳になっていた。「教員公募はフルエントリー。帯広畜産大から琉球大まで30数校に応募して全部落ちた」

 「都立大OBのいた神戸大学に誘われ、決まりかけたが最後で流れた。この先生が面倒見のよい方で、フランス語の専任に定年退職者が出た神戸女学院大に推薦してくれた」

 90年から神戸女学院大学文学部助教授に。95年の阪神大震災を体験。「地震の翌日バイクで大学へ。あまりの被害の甚大さに、意識が遠のいた。それから3ヶ月間は朝から晩まで土木作業。復旧するまで2年かかった」

 教務部長、入試部長を経験したことについて。「教務部長は会議が多くて、それがほんとにつらかった。でも、さまざまなタイプのクレーマーと対応したことはよい経験になった。入試部は志願者に向けて、大学のミッションステートメントを掲げる仕事。これはやりがいがある」

神戸大文学部は昔からなぜか京大より東大関係者の就職が多いように感じます。教授選は本当に「一寸先は闇」の世界ですから、決まるまで何が起こるかわかりませんね。しかし、「塞翁が馬」ともいいます。人生どこに幸運が転がってるかわからず、神戸女学院大に就職したことで、内田氏にとってはかえって充実した人生になったのでないでしょうか。


 内田樹氏の人生の転機となった高校退学そして浪人時代、その後の方向を与えたのは駿台予備校よりも多田宏氏との邂逅が大きかったように感じます。いずれにしても上の写真の姿をみてもわかるようにワイルドでチョイ悪オヤジの風貌で、実際も内田氏は生涯ずっと無頼派といってもいいヤンチャ人生を歩んできたように思えます。あんまりよく知らない思想家ですが、興味を満ちました。これを機に少し著作を読んでみるか。

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