東郷町長辞職 〜東郷式管理教育のなれの果て(1)
東郷町長辞職 〜東郷式管理教育のなれの果て(1)
東郷町長辞職 〜東郷式管理教育のなれの果て(2)
東郷町長辞職 〜内藤朝雄氏の記載を読んで
読売新聞と朝日新聞の記事から引用します。
育休1年取ったら殺すぞ」愛知・東郷町長、町議会全員協議会で辞職意向表明…ハラスメント行為指摘受け
愛知県東郷町の井俣憲治町長(57)が複数の職員に対するハラスメント行為を町の第三者委員会に指摘され、25日午前の町議会全員協議会で辞職の意向を表明した。「バカ」「死ね」などの発言を自身も認めている。5月2日付で辞職する見通し。
井俣憲治・愛知県東郷町長
第三者委が今月22日に町へ提出した報告書では、井俣氏は町長に就任した2018年5月以降、職員に「バカ」「死ね」「お前らの脳みそはハトの脳みそより小さい」など暴言を浴びせたり、女性職員が着ぐるみに入っていることを知りながら抱きついたりした。「育休を1年取ったら殺すぞ」など、マタニティーハラスメントに該当する発言もあったとした。
井俣氏は現在2期目。
一体どういう育ちの町長なのか。僕がすぐに連想したのは東郷高校です。「まさかあの高校の卒業じゃないだろうな?しかし東郷町の町長だからあり得るな。」でした。井俣憲治町長の経歴をみます。
愛知県愛知郡東郷村で生まれ[1]、東郷町立音貝小学校、東郷町立東郷中学校、愛知県立東郷高等学校、1989年(平成元年)3月に愛知大学法経学部、をそれぞれ卒業し、新日本証券、消費者金融の日栄などで勤務[2]する。
ああ、やっぱり!昭和時代恐ろしい「管理教育」で全国にその名がとどろき渡った愛知県立の東郷高校です。アンサイクロペディアというwikipediaのパロディ版の「東郷高校」には早速こんな記載がありました。
出身者
俳優の佐藤二朗が以前まではもっとも有名な卒業生であったが、東郷町長である井俣憲治がパワハラによって全国放送されて有名になった。東郷町では、井俣憲治のパワハラは東郷高校での管理教育の後遺症によるものだとする説が有力である。
やはり、僕とまったく同じことを考えている人は結構居そうです。
東郷高校の歴史でwikiなどからの引用です。(註 最初の記載に誤りがあり、下記は訂正しました)
1968年(昭和43年)2月 - (仮称)愛知県立東郷高等学校の新設を発表[。
1968年度愛知県立旭丘高等学校東郷分校の生徒募集を停止
3月20日 - 愛知県立東郷高等学校を設置。
4月 - 愛知県立明和高等学校を仮校舎として開校。
1969年(昭和44年)4月10日 - 愛知郡東郷村大字春木に管理棟が完成し、仮校舎より移転[8]。
1970年(昭和45年)3月 - 愛知県立旭丘高等学校東郷分校閉校
上記に出てくる県立旭丘高等学校東郷分校ですが、まず1948年に学制改革で愛知県立一高(現旭丘高校)ができ、翌年の1949年にできた昼間定時制の学校として始まりました(東郷村大字諸輪字北山、現町立東郷小学校がある場所)。旧制中学が新制高校に変わった時定時制(昼間部、夜間部)が併設された歴史は知っていますが、東郷町は旭丘高校がある名古屋市中心部からかなり遠くです。なぜこんな遠くに昼間定時制だけの分校?この分校は1953一貫して定時制でしたが(4年制)、1953年に夜間定時制に変わりました。そして1963年今度は全日制に変更されています(3年制)。ところが、東郷高校はこの旭丘高校東郷分校とはまったく独立に、1968年名古屋市中心部にある県立明和高校内に開校しています(旭丘高校でないことに注目)。その翌年の1969年に東郷町に移りますが、旭丘高校東郷分校とは別場所(東郷村大字春木)に校舎が建設されて移りました。旭丘高校東郷分校は1968年に募集停止しており、最後の卒業生が出た1970年に閉校しました。
時期的にみて旭丘高校東郷分校の代替として東郷高校ができたように見えますが、継承はまったくおこなわれていません。というより、意図的に連続性が完全に遮断されたと思えます。東郷高校や旭丘高校のサイトにこの辺の経緯がまったく記されてないので、なぜこうなったのかよくわかりません。長々書きましたが、東郷高校は当時としてはド田舎につくられた新設校であるものの、色々な意味で既設校の旭丘高校を意識していたことは間違いないでしょう。この学校の異常な管理教育は、当時の第一次ベビーブーマーで競争が激化した大学受験と密接な関連があると、私は感じます。
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