寺越事件 〜テロ国家北朝鮮が歴史の裁きを受けるのはいつだろうか?
少し前になりましたがテレビ朝日系のドキュメンタリー番組「テレメンタリー」で放映された内容です。「寺越事件」の概要をwikiから引きます。
寺越事件(てらこしじけん)とは、1963年(昭和38年)5月11日夜から翌5月12日未明にかけて、石川県羽咋郡高浜町(現、志賀町)高浜港沖で、漁船「清丸(きよまる)」に乗船して漁に出ていた寺越昭二(当時36歳)、弟の寺越外雄(当時24歳)、甥の寺越武志(当時13歳)の3名が洋上で失踪した事件[1]。この事件は、3名が乗船していた漁船の名から清丸事件(きよまるじけん)と称することがある。3名のうち、少なくとも寺越外雄と寺越武志は後に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で生存している事実が確認された。北朝鮮工作員による拉致事件であることが濃厚であるが、北朝鮮当局は「北朝鮮の船が遭難していた3人を救助した」と主張している。昭二の息子3人は拉致被害者の「家族会」に入会しているが、他方で武志の母親・友枝は入会を断り独自に訪朝するなどしている。
私がこの事件で記憶に残っているのは、北朝鮮による拉致被害者5人が帰国した2004年の時、寺越武志さんの母親寺越友枝さんになされたインタビューです。テレビ記者が「息子さんも北朝鮮に拉致されたのでないか?」と何度も尋ねるのに対して、ひたすら首を振り泣いているばかりでした。はっきり申して「泣いているばかりで、何を思っているのか全然わからない。」とイライラしたのを思い出します。寺越さんたちが日本海上で北朝鮮に拉致されたのは明白なのに、1987年の社会党議員団に同行して初めて再会した時以来、何かと北朝鮮のご機嫌取りで会うことができて、すっかり北朝鮮の言いなりになっているのでないかとすら思いました。
しかし、このドキュメンタリーを見て、それが完全な誤解だったと知ると同時に、寺越友枝さんにそうした感情をずっと持っていたことを申し訳なく思いました。武志さんの叔父で友枝さんからは義兄にあたる寺越外夫雄さんから拉致後初めて日本に来た手紙も、はっきり申して北朝鮮が拉致した2人に金の無心をさせるためだったとしか思えません。再びwiikiの記載から引用します。
失踪から24年目の1987年(昭和62年)1月22日、死んでいると思われていた寺越外雄から姉豊子(嘉太郎の次女)の嫁ぎ先に突然手紙がとどいた[2][6][7]。罫線のないわら半紙にボールペンで書かれていた手紙には、3人は失踪後、北朝鮮で暮らすようになったこと、自身は北朝鮮で家庭をもち、2人の子があること、外雄の北朝鮮での住所、「金哲浩(キム・チョルホ)」という北朝鮮での名前が記されてあった[2][6]。豊子の夫はすぐにこれに返信し、本当に外雄本人なのかどうか確定させるための質問も盛り込んだ[6]。外雄の返信により、間違いなく外雄の北朝鮮での生存が確認された。外雄の手紙によれば、武志は生存し、結婚して子どももいるが、昭二は北朝鮮に来てから5年後に亡くなったという[2][6]。
世間にはなるべく内緒にしながら日本の寺越家と北朝鮮の外雄とのあいだで手紙のやりとりが続いたが、外雄からの手紙は金品を送ってくれという内容ばかりが目立つようになった。一方、武志の母友枝は1人で奔走して1987年8月、当時の日本社会党訪朝団に同行して初の平壌入りを果たし、外雄・武志と24年ぶりの再会を果たした。
日本社会党はもはや過去の政党ですが、今となるとこれくらいあざとい政党も珍しかった。「労働者の味方」といったポーズで票を獲得しながら、やることは保守勢力の代議士と同じくらいふんぞりかえって利権漁りばかりしてました。いわば「赤い貴族」です。この寺越友枝さんの同行も、社会党代議士でこの北朝鮮訪問団の団長だった嶋崎譲(ゆずる)に上手い具合に政治利用されたとしか思えません。日本社会党は長年、北朝鮮の日本人拉致に関して否定してきました。党委員長だった土井たか子も否定しました。嗚呼、1989年の参院選で社会党議員大量当選の時、「山が動いた」とかくだらない事ばかり言ってはしゃいで、どうしようもなく下らない政治家でしたね。結局、寺越事件は寺越友枝さんが偽善政党の日本社会党に最初頼ってしまったことが後々まで尾を引いた気がします。北朝鮮が日本から金を引き出すための、いわば格好の金蔓として利用された寺越武志さんの家族は、外雄さん、武志さんと会うことを利用され続けたと思います。
上記した2004年の日本人北朝鮮拉致被害者5人の帰国5日前に、それまで来日していた武志さんは北朝鮮に帰国します。小泉純一郎はこれを利用したとしか思えません。長年北朝鮮から日本への渡航を繰り返した寺越武志さんを再度北朝鮮に戻したなら、今回の5人の拉致被害者も小泉純一郎が平壌で金正日に約束したようにまた北朝鮮に戻すと思ったのでしょう。しかし小泉はその約束を破り(というか守る必要もない約束ですが)、5人を北朝鮮に戻さなかったのです。この5人も日本から金を引き出すための人質をして利用しようとした金正日の怒りは如何ばかりか想像がつきます。ちなみにこの時の拉致被害者の帰国した飛行機に、金正恩が大量の松茸を「土産」として積ませた事も有名です。この松茸、日本に到着したものの誰一人として食わずゴミとして捨てられたそうですが、これにもさぞかし腹が立ったことでしょう。
今回のテレメンタリーの番組取材でも、5人の拉致被害者帰国に関わった当時の
首相・小泉純一郎
武志さんの一時帰国に関わったことがある元首相の森喜朗(石川県選出)
田中均(外務省・アジア大洋州局長)
藪中三十二(みとじ)(外務省審議官)
飯島勲(総理秘書官)
福田康夫(官房長官)
川口順子(よりこ)(外務大臣)
この全員が、寺越事件についてのインタビューを断ったと出ていました。私は、彼ら全員が寺越武志さんを利用して5人の拉致被害者の永住帰国を図ったと思います。もし安倍晋三氏が生きていたら、このインタビューを承けたでしょうか?
番組を見終わって思ったのは、非情な歴史に翻弄され続けた日本の一般民衆の悲哀です。何も悪い事をしたわけでないのに、ここまで非道な目に遭わされ、それを言うことすら許されない。元凶は北朝鮮です。この寺越事件で拉致されたのは3人ということになっていました。寺越武志さんと叔父の外雄さん、昭二さんです。ところが昭二さんは「北朝鮮に来てそこで死んだ」ことになっていました。外雄の手紙をもとに1968年(昭和43年)に清津で「酒盛りをした翌日、ベッドから転落して死んでいた」は、実は全くのウソだったのです。wikiの記載を引用します。
北朝鮮工作員だった安明進の証言によれば、金正日政治軍事大学の呉求鎬(オ・グホ)教官が清津連絡所に勤務していた1960年代中頃、能登半島で漁船に乗っている3〜4人の男性を拉致しようとし、そのうちの1人が少年だったこと、また、漁船のなかで最も年長だった者が頑強に抵抗したので、その場で射殺し、鉛のかたまりを身体にくくり付けて海中に投げ捨てたことを、呉求鎬自身から聞いたという。呉求鎬は工作員養成機関である金正日政治軍事大学で、1988年11月の「航海講座」の際に、安明進ら学生にこのときのことを詳細に説明し、日本での拉致は自分が最初だと語った。呉によれば、怖がって泣き出した子どもをかばった男を射殺し、その後、震えている子どもともう一人の大人を工作船に乗り移らせ、死体も乗せたという。安明進は1991年9月、大学の通信装備倉庫の前で寺越武志に酷似した眼鏡をかけた私服の男性を見かけており、学生の一人が「あれが教官が拉致した男だそうだ」と安に教えたという
あまりに酷い話です。そして今金正日の息子金正恩に至っては、精神異常者です。数々のミサイル発射などテロ行為を続け、北朝鮮人を殺し続けています。そうそう義理叔父(張成沢)を高射砲で木っ端みじんに粉砕し、兄(金正男)もクアラルンプール空港で暗殺しました。今世界で精神異常の政治家は少なくともプーチンと金正恩の2人がいます。この前手に手を取り合ったこの二人に、歴史の祝福あれ!頭をスイカ割りにたたき割られて血まみれで死んでいくことを強く願っています。私の願いが天に届け!
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