日大元副学長が医師法違反か 〜相変わらずガバナンスがない1
日大元副学長が医師法違反か 〜相変わらずガバナンスがない2
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読売新聞の記事です。
日大元副学長が医師法違反か…カルテ記載せずモルヒネ処方、特別調査委認定
2024/04/18
日本大学の特別調査委員会が、田中英寿・元理事長(1月死去)への薬の処方を巡り、主治医だった元副学長の男性(68)について「医師法違反の可能性が高い」と認定していたことがわかった。医療用麻薬のモルヒネを含む痛み止めを処方していたが、医師法で義務づけられたカルテへの記載がなかったという。
田中英寿元理事長は数々の不法行為を日大でおこない(脱税、暴力団との交際など)、脱税に関しては有罪となった人物です。功労もあったと言われますが、不正行為の方が遙かに多く悪を成した人物です。wikiによると
2024年1月13日4時、東京都内の病院で死去した[4][9]。77歳没[7]。体調を崩し年末より入院しており[7]、一部メディアの記事では肺の病気、又はがんで闘病していたとされる
となっていますが、はっきりした死因は示されていません。今回の読売の報道によると、
最終報告書や関係者の話によると、田中氏は18年頃に千葉県内の病院で直腸がんの手術を受け、東京・杉並の自宅兼ちゃんこ料理店で療養。「日大医学部付属板橋病院」(東京)で受診することもあった。
となっており、おそらく直腸癌の肺転移による呼吸不全で亡くなったのでないかと思います。モルヒネは癌性疼痛のための鎮痛剤としての処方と考えますが、麻薬として厳重に取り扱う必要があります。
副学長で同病院に勤務していた男性は21年8月~22年4月に計7回、医師3人にモルヒネを含む「オプソ内服液」などの処方箋の作成を指示。そのうえで、事務長らに薬局で薬を入手させ、田中氏に届けさせていたとみられる。男性は22年に副学長を退任した。
この7回分の処方箋について、医師3人はいずれも診療を行わずに作成していた。3人は「元副学長が診察し、薬の処方が必要だと判断したと思っていた」などと説明した。
だが、調査委が院内の電子カルテシステムを解析したところ、田中氏に薬を処方するための診療が行われた記録は、一切なかった。元副学長はヒアリングを拒否し、書面で診療の有無を尋ねても守秘義務を理由に回答しなかったという。
これは守秘義務とは関係ないことでしょう。診療記録がないと言われたら、診療したのかしなかったのかはっきり答えるべきです。
調査委は最終報告書で、処方のための記録が電子カルテに残っておらず、元副学長について医師法違反の可能性が高いと指摘。「厳格に管理すべき医療用麻薬が処方されていた点からも悪質性は高い」とした。
取材に対し、日大は「監督官庁と協議し、回答を待つよう言われている」として、調査委の指摘内容について答えなかった。元副学長に対しては文書などでコメントを求めたが、17日までに回答はなかった。
きわめて尊大な態度です。この副学長とは一体だれか?調べたら、すぐわかりました。高山忠利氏です。wikiから引用します。
高山 忠利(たかやま ただとし、本名:髙山 忠利、1955年11月29日[1] - )は、日本の医学者、医師。専門は、消化器外科学・肝胆膵外科学。学位は、医学博士。
元日本大学専任副学長、元日本大学医学部長、元日本大学医学部外科学系消化器外科学分野主任教授。
経歴は以下です。
1974年3月 - 日本大学第二高等学校卒業
1980年3月 - 日本大学医学部卒業[3]
1984年3月 - 日本大学大学院医学研究科修了[3][4]
1987年6月 - 国立がんセンター中央病院外科チーフレジデント[3]
〜中略
1995年4月 - 東京大学医学部第二外科講師[3]
1996年11月 - 東京大学医学部第二外科助教授[3]
1997年4月 - 東京大学大学院医学系研究科肝胆膵移植外科助教授[3]
2001年4月 - 日本大学医学部外科学講座外科3部門主任教授、日本大学医学部附属板橋病院外科3部長[3]
〜中略
2020年9月 - 日本大学専任副学長・医学部長、日本大学医学部外科学系消化器外科学分野主任教授、日本大学医学部附属板橋病院消化器外科部長[6]
2020年10月 - 日本大学医学部長を退任
2021年3月 - 日本大学を定年退職[7]。
2021年4月 - 日本大学専任副学長、日本大学総合科学研究所教授[8]
2022年7月 - 日本大学専任副学長を退任
この中で目を引くのが、高山氏が東大第二外科で助教授を務めていることです。東大医学部の中でも移植外科など花形領域を手がける同科には東大生え抜きが多く、他学それも日大のような私立大出身者はきわめて例外的だと思います。どういう経緯なのか興味を持ちました。
医学部教育情報マガジンを手がける「教育広報社」のサイトに、高山氏のインタビューがありました。
卒業後は外科医として開業することを決めていたため、大学院へと進み学位を取得した。父も息子が開業するためのビルを建てていた。1階が長男である高山教授の外科医院、2階が弟の歯科クリニック、3階から上は弟夫婦、高山教授夫婦、両親の住居という人生設計図を描いていたという。
しかし、大学院で腫瘍免疫学の基礎研究に取り組んだ経験からがん治療に興味を持ち、学位取得後の1984年、国立がんセンターに半年間の臨床研修に参加することに。父には「開業前に少しだけ猶予期間をくれ」と告げての研修参加だった。そこで、件の幕内先生に出会ったのだ。
「『血が出るから触るな』と言われていた肝臓がんの手術が、ここでは当たり前のようにルーチンワークとして行われている。患者さんも治って帰っていく。カルチャーショックというか、『ここは世界有数のレベルだ』と。痺れましたね」
何より幕内先生の手技に魅了された。時は幕内術式と呼ばれる肝臓を8つの区域に分け、がんができた区域だけを取り除く「系統的区域切除」が開発された頃。ひっきりなしに肝臓がんの患者さんがやってくる。
「とにかくここで勉強させてもらおう」。しかし、当時、国立がんセンターの正規のレジデ
ント枠は3人。他にも20人ほど研修医が居たが、全国から志願して集まった“無給”の半年間限定の研修医で、高山教授もその一人だった。従って、研修期間を終えた後は日大に戻った。そろそろ開業しようかと思っていた頃、幕内教授から電話が掛かってきた。「がんセンターでチーフレジデント制を始めるから来ないか?」という。「行きます」 即断即決が信条だ。
なるほど、国立がんセンターで幕内雅俊氏に出会ったのか。幕内雅俊氏は医学界では有名な「幕内三兄弟」の二番目で、その後東大第二外科学の教授となり肝臓外科学の発展にも大きな貢献がありました。
国立がんセンターに戻った高山教授は、幕内先生の手技を習得すべく、365日ほぼ休みなく働いた。師は厳しく、手取り足取り教えない。盗むしかない。術場に立たせてもらい、師の一挙手一投足を目に焼き付けた。2年の予定が4年になり、レジデントからスタッフドクターになった。
〜中略
その後、東大に移った幕内教授に再び呼ばれ、肝胆膵移植外科の助教授に就任する。
「さすがにこのときは、父も『開業しろ』とは言わなくなりましたね(笑)」自分がなりたかった医師となり、世界的な功績を上げた息子に、父は十分に満足したのかもしれない。
2001年から母校日大の教授として消化器外科の最前線に立つ高山教授だが、当時は「日大で肝臓外科」というイメージは薄かった。しかし、緻密で難易度の高い高山術式が評判を呼び、肝胆膵がんの手術件数は着実に増え、現在、全国トップの年間300症例を超える。
外科医としての実績はすごいものがあります。最後に最近の外科医不足とからめて、
「職業として見ても、外科医は魅力的な仕事だと思いますよ。頑張れば頑張った分だけのやりがいを得ることができます。ただし、それを得るために必要なのは医学の知識ではなく、むしろ“心”です。医学の勉強は根性さえあれば、誰でもできます。求められるのは患者さんの想いに応えられる熱い心。だって、患者さんは僕らに命を預けるわけですから」
と結んでいます。
高山氏が外科医として精進したのは事実だと思います。しかし、上記の無分別な行動はきわめて印象が悪いです。まさに古い昭和の親分子分的な発想で行動しており、如何に日大医学部の教授就任にあたって、田中英寿元理事長に多大な恩義を感じていたとはいえ、ガバナンスの欠如した姿勢です。医師向けサイトでは「高山氏は田中元理事長が残した派閥で日大学長就任をもくろんでいるから忖度した」と言われているが、まさかですよね??
読売の記事で
大学運営に詳しい八田進二・青山学院大名誉教授は「多くの命を預かる大学病院で、田中氏を巡って不適切な行為が常態化していたことになる。大学内でガバナンス(組織統治)不全が起こっていたことを示す証左だ」と話した。
と厳しく糾弾されています。しかし、高山氏はその批判が理解できないかもしれない。早く林真理子理事長の下に、日大の運営の透明性が確立することを願うばかりです。
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