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「こころの時代 殉難者の祈り」 〜常紋トンネルの怨念

(1970年、常紋トンネル修復時に壊れた壁から見つかった人骨)


今朝のNMK「こころの時代」は「殉難者の祈り」と題して、明治期の北海道開拓の陰で犠牲を強いられた人々に光を当てました。「殉難者」とは、「国家や社会の危難のために身を犠牲にした人」のことです。現代でも警察官や消防士、自衛官、海上保安官など危険な任務に就く公務員の皆様にはこの「殉難者」が毎年いて、慰霊がおこなわれています。しかし今回「こころの時代」が取り上げたのは囚人や一般人で、これまであまり語られてこなかった北海道開拓の負の側面に注視しています。


 北海道開拓が急がれたのは、当時いや今も南下政策をとるロシアの存在があったからです。強大な軍事力としつこいと言っていいくらいの粘り強さをもって襲いかかるロシアは、今も昔も日本にとって最大の脅威です。よくクマに例えられる国ですが、あらゆる面でクマの習性ともよく似ています(クマが人間を恐れる点「だけ」が違いますが)。17世紀末のピョートル1世の時代にはロシアは極東までその勢力範囲を伸ばし、アムール川(=黒竜江)流域のシベリアに入り込んできました。その後オホーツク海やベーリング海などまで間もなく達しましたが、18世紀前半にはステラーカイギュウの発見と同時に、殺戮であっという間にこの貴重な動物を絶滅に追いやりました。その後19世紀に入ると清の弱体化に乗じて清の領土だった沿海州を「共同管理」地帯としました(1858年愛琿(アイグン)条約)。ところがそのわずか2年後にアロー号戦争でイギリス・フランスとの戦争に負けた清につけ込み、1860年の北京条約で沿海州を「ロシア領土」と認めさせたのです。これは当時の日本の江戸幕府にとっても重大な脅威だったでしょう。19世紀前半に江戸幕府は間宮林蔵の樺太探検を通じて状勢を探っていましたが、19世紀なかばの明治維新直前にはプチャーチン率いるロシア艦隊が日本に来航し、江戸幕府に開国をせまりました。こういった背景から新生の明治政府が北海道の領有に重大な関心を寄せたのは当然だったといえます。


 そのため北海道開拓と軍備配置を急いだわけですが、かなり無理な突貫工事を繰り返して補給に必要な鉄道や道路の整備をおこないました。この時に数々の人命が失われたことに関心を寄せたのが、北見市の高校教諭・小池喜孝(きこう)氏です。小池氏の調査で北海道各地の建設実態が明らかになりましたが、番組冒頭で取り上げられているのが、JR石北線「常紋トンネル」です。かなり有名な話なのでご存じの方も多いと思います。大正元年(1912年)から3年がかりでつくられたこのトンネルで100数十人の死者が出たといわれていますが、その多くが「監獄部屋」あるいは「タコ部屋」と呼ばれる監禁状態での過酷な労働あるいは暴力で殺されたと考えられています。それは記録には一切残されず「噂」でしかなかったのですが、「トンネル内で亡霊が出る」という怪異話は随分あったようです。1968年に起きた十勝沖地震で壊れたトンネルの修復工事を始めた1970年に、壁から人骨が出て来たため、初めて「噂」が「事実」として認識されるようになりました。今は回収された遺骨を納骨し、慰霊碑も立っています。この常紋トンネル、私は昨夏旅行で初めて通りました。もっと長いトンネルをイメージしていたのですが、500mほどであっという間に通過した感じです。しかし、この長いとはいえないトンネルにそのような多数の犠牲者が出たとは、驚くばかりです。なぜ長年明らかにならなかったですが、関係者が沈黙したことも大きいようです。常紋トンネルで働いた労働者が当時を記した文書が、北見文化センターに保存されています。過酷な労働や逃げ出した労働者に対するリンチ。記録を残した石島福男氏は生前だれにも話さず、遺品として発見されています。こういう監獄部屋で働く労働者に、北海道で長い間差別や偏見があったからです。内地で食い詰めた貧しい人たちや朝鮮人たちが多かった。中には犯罪を冒した者もいたでしょうが、十把一絡げに差別されていました。石島氏が5メートルにも及ぶ長文の記録文書をしっかりした字で書き残したのは、この悲惨な歴史を後世に伝えたいという切実な願いがあったからでしょう。


 そもそもなぜ「監獄」部屋なのか?それは始まりがまさに監獄の囚人だったからです。番組でも明治時代に入って、北海道・網走に早速囚人を収容する監獄ができたことが述べられています。どういう囚人かというと、明治時代初期は当時多発した不平士族で挙兵した者たちです。その後は自由民権運動の運動家で逮捕された者が次々と囚人として北海道に送られます。この監獄の囚人たちを使役を指示するよう建白したのが、太政官書記官だった金子堅太郎です。彼は1885年に「北海道巡視意見書」という文書を政府に出しています。そこには、
《彼等ハ固ヨリ暴戻ノ悪徒ナレハ、其苦役ニ堪ヘス斃死スルモ、尋常ノ工夫カ妻子ヲ遣シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨情ト異ナリ、又今日ノ如ク重罪犯人多クシテ徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレハ、囚徒ヲシテ是等必要ノ工事ニ服従セシメ、若シ之ニ堪ヘス斃レ死シテ、其人員ヲ減少スルハ監獄費支出ノ困難ヲ告クル今日ニ於テ万已(ばんや)ム得サル政略ナリ》
と書いてあります。要するに
どうせワルいことした奴らなんだから、死んだって悲しむ者なんかいやしない。そもそも重罪人に金を使うなんてムダだから、工事で死んでくれれば大事な国費が節約できてますますよろしいことよ。ホホホホ
と言っております。この稀代の悪代官・金子堅太郎の建白が政府に採られ、大量の囚人が使役されました。有名なのは、1891年の旭川と網走を結ぶ道路建設で、この時を再現したものは「網走監獄」でも見ることができます。この建設で200人以上の囚人が亡くなり、その後の「監獄部屋」の始まりと言えます。この囚人使役自体は1894年に廃止されますが、一般人を集めて監視し、同じように過酷な使役をおこなうことは、その後もずっと続けられました。北海道の開拓の陰にはきわめて非人道的な違法・犯罪行為があったことは、今でも多くのひとが知らないのです。