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雲仙ハム 〜今まで食べてなかったのを後悔


muragonブログ内で村内伸弘氏のブログをときどき読ませていただいております。色々な旅記事が多いですが、それと同じくらい食に関する記事も多いです。その中で「雲仙ハム」の記載に目が止まりました。「これはなかなか美味そう。お正月のお持たせにもちょうど良い。」と感じました。早速雲仙ハムの通販サイトを開きましたが、お歳暮用の贈答セットはすでに売り切れ。でも村内氏の記載では、大きいのも小さいのも味は同じとなっています。それならどうせ親戚だしかまわないやということで、通常サイズのものを6本注文しました。


 雲仙ハムは数日で届き、しばらくベランダに「冷蔵」しておきました。さて年末も押し詰まったここ2日ほど、早朝出勤もなくなりゆっくり朝ご飯を食べられます。そこで雲仙ハムを取り出し、輪切りにして焼いてみることにしました。火はすぐ通ってちょうど良い焦げ目がつきます。


早速、パクッ。いや、期待以上に美味いわ。まず食感としてかちっと整形された普通のソーセージの感じでなく、噛むとほろほろ崩れます。その中からほんのりタマネギの風味が拡がり、まるでミートローフを食べているよう。雲仙ハムはハムでなくボローニアソーセージと書かれていますが、前菜でよく食べる普通のボローニアソーセージともまったく違います。かなり個性的なソーセージですが、良い意味での個性です。「雲仙ハム」で検索すると、色々な方がその美味を讃えています。今まで僕がこのソーセージを知らなかったのは残念なくらいです。


 しかし、このような逸品がどうして長崎は雲仙に生まれたのでしょうか?「雲仙ハム」の箱は簡素なもので、説明書などは入っていません。ネットでも調べましたが、詳しい記載は見つかりませんでした。わずかに「(雲仙ハムの)先代が、白系ロシア人に製法と技術を習った」という記載がある程度です。雲仙ハムは2020年で創業50年という記載があるので、1970年頃の創業と思われます。そんなに古い話ではありません、白系ロシア人と日本の関わりは、1915年のロシア革命後、共産党政府を嫌ったロシア人がシベリアを経て東アジア各国に亡命した時に深まります。第二次大戦後中国大陸方面から帰国した日本人の中にはこの白系ロシア人と付き合いがあって、帰国後にロシア料理店を開いたりしました。代表的なのは今は新宿にある「スンガリー」でしょう。スンガリーとはスンガリー江、中国名でいう「松花江」のことです。旧満州、今の中国東北部から帰国した日本人が開業しました。開業者とは、今年読売の「時代の証言者」にも出た歌手・加藤登紀子のご両親です。

「スンガリー」は、歌手・加藤登紀子さんのご両親である加藤幸四郎さん・淑子さん夫妻が開いた、ロシア料理とジョージア料理のレストランだ。かつてふたりが暮らしたロシアの香り漂う中国・ハルビンへの郷愁から、昭和32年(1957)に創設した。店名は、彼の地に流れる大河「スンガリー」(松花江(しょうかこう))に由来する。ロシアから亡命した初代料理長クセーニア夫人が作る料理は口コミで評判になり、瞬く間に人気店となった。それから63年――。いまも日本を代表するロシア料理店として、東京・新宿に2店舗を構える。


 しかし、雲仙ハムと白系ロシア人の関わりはどうしてもわかりません。ここからは完全に私の想像ですが、「雲仙観光ホテル」と関係するのでないでしょうか?雲仙観光ホテルはクラシックホテルとして有名で、格式の高いホテルです。私も将来是非泊まってみたいホテルの一つです。wikiの記載です。

1932年(昭和7年)、当時の鉄道省観光局は日本への外国人客誘致による外貨獲得のための国策として、日本各地に15のホテルを建設しようと計画した(国策ホテルも参照)。これにより政府による低金利融資を受け上高地や琵琶湖をはじめ、日本各地に外国人向けホテルが建設されることになるが、その一環として、日本郵船が運営していた上海航路などにより外国人客が多く訪れていた雲仙にも洋式ホテルの建設が決定した。

雲仙は幕末の開港地のひとつ長崎とも近く、外国人には明治時代以前から知られていたようです。

長崎県の雲仙は、幕末に「ケンペル」や「シーボルト」によりヨーロッパに紹介され、広く国外に知られるようになった。開国後、東アジア在住の欧米人が、中国大陸と日本をつなぐ長崎・上海航路を利用し、避暑を目的に雲仙を訪れるようになり、外国人向けの洋式ホテルや外国人専用ホテルが開業した。日清戦争後は、ハルピン、ウラジオストクからのロシア人避暑客も増加し、日本初の県営公園を開設、大正時代に県営ゴルフ場と県営テニスコートも整備され、1934(昭和9)年には日本初の国立公園に指定された。


こういう記載もネットにあったので、引用します(ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌)。

なぜ多くの外客が戦前期に雲仙温泉を訪れたのか?


「100年前の夏、外国人は日本のどこに滞在していたのか」で書いたように、当時の外客滞在数のトップ10の中に雲仙温泉(長崎県)がランクインしています。

これは当時日本に外国人が入国する港の3位が長崎だったことと関係があります。結論から先にいうと、中国大陸と日本をつなぐ長崎・上海航路で訪日した上海租界在住の欧米人(なかでもロシア人の比率が高かったようです)が避暑のため、長崎に渡り、雲仙温泉に滞在していたからです。

しかも、こうも記載されています。

100年前の夏、外国人は日本のどこに滞在していたのか?


いまから100年前の大正2(1913)年の訪日外客数は約2万人でしたが、彼らは日本のどこを訪ね、滞在を楽しんでいたのでしょうか。


当時は国内を数日間で移動できるような鉄道網や自動車道は発達してなかったため、今日のような東京・大阪5泊6日コースのような短期間の周遊旅行はありえませんでした。そのため、多くの外国人客は東京や京都といった大都市以外は、国内各地の温泉地や避暑地、また鎌倉や日光、宮島など主要な観光地の周辺に生まれつつあった外国人経営の洋式ホテルや温泉旅館に滞在していたようです。移動型ではなく、滞在型の旅行形態が一般的だったと思われます。


ツーリスト3号(1913年10月)では、この年の7、8月「避暑地、温泉及び都会等に滞在せる外人旅客数」を国籍別に調査しています。同調査に挙げられた滞在地は以下のとおりです。


東京、横浜、鎌倉、熱海、伊東、修善寺、京都、神戸、宝塚、有馬、宮島、道後、別府、長崎、小浜、温泉(雲仙)、伊香保、草津、日光、中宮祠、湯本、鹽原(塩原)、松島、大沼公園、登別温泉


なかでも外客数のトップは、日光6256人。次いで鎌倉3368人、京都3008人、東京1738人、中宮祠1593人、横浜1127人、湯本1067人、小浜1039人、神戸878人、雲仙765人と続きます。

調査の結果、この年の7、8月中に日本に滞在していた外国人客数は、24736人でした。国籍別にみると、トップが英国人9225人、次いで米国5992人、支那3001人、ドイツ2866人、フランス1440人、ロシア1044人と続きます。

なるほど、雲仙は戦前外国人には有名な観光地で、しかもロシア人観光客がかなり多かったとみえます。完全に想像ですが、雲仙観光ホテルに長期滞在した白系ロシア人観光客が、このソーセージの作り方を日本人に伝授したのでないでしょうか?


 しかし、なぜロシアからボローニアソーセージ?という疑問が残ります。ロシアとボローニアソーセージで検索すると、こんなソーセージがありました(RUISSIA BEYONDから)。

ソ連時代は、湯煮ソーセージも燻煙ソーセージもそれほどたくさんの種類がなかった。自由に手に入るソーセージといえば、ドクトル・ソーセージ、リヴェルナヤ・ソーセージ、それにチャイナヤ・ソーセージであった。しかし、これらのソーセージは今も多くの人の心によき思い出を残している。

1.「ドクトルスカヤ」

もっとも有名で、国民的に愛されたソ連のソーセージは「ドクトルスカヤ」と名付けられていた。「ドクトルスカヤ」は、一見、イタリアのボロニア・ソーセージに似ている。1936年に販売されるようになったが、長期にわたる飢餓の後(内戦や帝政の独裁政治によって健康を害した人々)のための食事として推奨された。原材料は牛肉(25%)、豚肉(70%)、卵(3%)、牛乳(2%)で、肉は高級なものが使われた。1970年代に食糧不足のためにデンプンが加えられるようになったが、いくつかの工場では当時のままのソーセージが作られている。最近は肉がさらに少なくなり、大豆が加えられている。

うーん、最後の記載を読むと、今はあまりうまくなさそうです。実際こういう記載がありました。

ドクトルスカヤソーセージは昔、考えられる最高のごちそうだった。

サンドイッチに入れたり、サラダ、スープに入れたりする。

時間が経って、今でもソーセージは人気だが、昔ほどおいしくはない。

よくありがちな話ですが、人間は当初の理想から時間が経つと段々怠けて楽に儲けようとするものです。この「医者ソーセージ」wikiで調べると、こう書いてあります。

1930年代、ソ連の食料工業省大臣アナスタス・ミコヤンがタンパク質豊富なソーセージの開発を命じた。できたソーセージは瞬く間に人気となり、また健康に良いことからドクトルスカヤ(医者)のソーセージと名付けられた。できた当初はレシピが厳格に規制されていたが、だんだん規制が緩み、結果的にロシアではロシア標準規格であるGOST規格に違反したソーセージが売られていた。

当初は間違いなく美味しいご馳走ソーセージだったのですね。もしこのソ連製ソーセージと関係するならば、雲仙ハムは第二次大戦後に伝来した技術となります(1939年のノモンハン事件後に日ソ中立条約こそあったが、戦後まで完全に没交渉)。ミコヤンのこの施策は恐ろしい歴史を前段としています。1928年にソ連指導者だったスターリンが強行した重工業と農業集団化重視の「経済5カ年計画」は、ホロドモールと呼ばれる大飢饉を起こし、ウクライナを中心に400万人近い餓死者が出ました。ドクトルスカヤソーセージの開発はその罪滅ぼしだったのでしょうか?こんなところでミコヤンの名前を見るとは思わなかった。ミコヤンはスターリン時代からフルシチョフ、ブレジネフの時代もしぶとく生き抜いたソ連共産党幹部です。ソ連の外交責任者として日本にもたびたび来ており、良く知られています。しかし、ミコヤンはさすがに雲仙までは来なかったでしょう。


 雲仙ハム、おそらくは戦前に雲仙観光ホテルを訪れた白系ロシア人観光客と関係すると思いますが、ソ連時代のドクトルスカヤソーセージもまったくの無関係ではない気がします。