警察沙汰にもなった明大「立て看板」2 〜狭山事件と革労協
警察沙汰にもなった明大「立て看板」1 〜昭和の暗い残像
警察沙汰にもなった明大「立て看板」2 〜狭山事件と革労協
警察沙汰にもなった明大「立て看板」3 〜明大で荒れ狂った内ゲバ殺人
警察沙汰にもなった明大「立て看板」4 〜ヤフコメの反応
昭和時代、明大の立て看に溢れていた「狭山事件」に簡単に触れておきます。部落解放同盟中央本部の記載を引用します。
1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状がとどけられるという事件がおきました。警察は身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら取り逃がしてしまいました。女子高校生は遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中しました。
捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、なんら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1カ月にわたり警察の留置場(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、犯人にでっちあげたのです。地域の住民の「あんなことをするのは部落民にちがいない」という差別意識やマスコミの差別報道のなかでエン罪が生み出されてしまったのです。
一審は死刑判決、二審は無期懲役判決で1977年に無期懲役判決が確定し、石川さんはただちに再審請求を申し立てました。第一次再審請求はまったく事実調べもなく棄却。1986年8月に第二次再審請求を東京高裁に申し立てるとともに、すべての証拠の開示と事実調べをおこなうよう東京高裁、東京高検にたいして求めてきました。
しかしながら、1999年7月9日、東京高裁・高木裁判長は事実調べも行なわないままに、抜き打ち的に再審請求を棄却しました。この不当な棄却決定に対し、7月12日、弁護団は直ちに東京高裁に異議申立をおこない、現在に至っています。
この事件で有罪となった石川一雄氏ですが、えん罪であり無実だと僕は思っています。石川一雄氏が被差別のいわゆる「部落民」だったため、警察の不当な嫌疑をかけられたと考えています。しかし、明治大学になぜこの「狭山事件」の石川氏を支援する立て看が林立していたのか?それは社青同の存在です。社青同は「日本社会主義青年同盟」の略称で、元々は日本社会党の青年部から発足した組織です。余談ですが、「しゃせいどう」と書いて変換しようとしたら、「射精道」になってしまった。「射精道」は近刊の本ですね。時代を感じる。社青同はその活動の一環として全国部落解放青年同盟も組織していました。部落民差別反対からこの狭山事件を闘争の一環としました。革労協とは「革命的労働者協会」の略称です。1960年代末の大学紛争後、1970年代に入って社青同解放派が完全に日本社会党と袂を分かちましたが、その解法派の中でもラジカルな一派が組織した左翼過激派の一つです。駿台予備校に通っていた頃、明大の立てカンは「社青同」の署名だったが、1990年代は「革労協」になっていたのは、そういうことだったのか。今回調べて初めて知りました。
wikiの記載です。
革命的労働者協会(革労協)は、1969年に結成された日本の新左翼の1つである社青同解放派の中心的な政治組織。1981年に「社青同」が分裂し解体状態となって以降は、主に「革労協」を称するようになった。1999年に更に分裂した。
分裂以前は、社青同解放派を参照
1981年の分裂以降は、
主流派のいわゆる「狭間派、現代社派」は、革命的労働者協会(社会党社青同解放派)
反主流派のいわゆる「滝口派、労対派」は、革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会
1999年の分裂以降は、
反主流派のいわゆる「木元派、赤砦社派」は、革命的労働者協会(解放派)
学生運動や労働運動から派生した1970年代の左翼運動は大衆の支持を失って少数派となると同時に過激になり、さらに仲間割れが顕在化して分裂が進みます。革労協の主流派のいわゆる「狭間派、現代社派」と一番下に出てくる反主流派の「赤砦社派」が、1980年前後明大を拠点としたのです。その結果が陰惨な内ゲバ事件です。
1970年代、社青同解放派は「主流派(狭間派・現代社派)」と「非主流派(労対派・全協)」に分裂した。更に1980年代以降、主流派から「革労協反主流派(赤砦社派・木元派)」が分裂し、激しい内ゲバを行った。
「革命的労働者協会(解放派)」(通称:赤砦社派)は、社青同系の日本の新左翼党派の一つで、1999年に「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」(主流派、現代社派)から分裂して結成された。分裂前は、主流派は常任幹部が中心の強硬派、後の赤砦社派は全学連(解放派系)や寄せ場労働者などのメンバーが中心の穏健派であった。
赤砦社派の基本思想は対立する現代社派とも同一で、マルクス主義の復権(革命的マルクス主義)を掲げ、レーニン主義(特に外部注入論)を批判し、プロレタリア世界革命の一環としての日本革命を目的とする。この立場から、日本帝国主義打倒、日米安保粉砕、党としては共産主義労働者党確立、労働運動では階級的革命的全国統一センター建設、などを掲げる。
一方、赤砦社派と対立する革マル派は「反革命革マル」と呼び、その撲滅を掲げる。
分裂直後の1999年から2004年迄は、赤砦社派は対立する現代社派と激しい内ゲバを行い、5名を殺害し、5名を殺害された。この過程で主要拠点であった明治大学から現代社派・赤砦社派ともに追放された。
この最後の顛末がすごかった。まず成田空港開設反対運動で分裂した現地農民の北原派と小川派の支持を巡って革労協内部で対立し、敗北した永井啓之が除名されます。しかし、除名後も依然組織内に影響力があった永井氏に、主流派となった狭間グループは危機感を抱きます。
1986年頃から革労協狭間派の間で路線対立が激化した。狭間嘉明率いる武闘派路線の狭間グループと、テロ・ゲリラの必要性を認めながらも大衆闘争を通じた組織拡大を訴える永井啓之率いる穏健派路線の永井グループの対立である[1]。成田空港問題でも、狭間グループは北原派を支持し、永井グループは北原派から分裂した小川派を支持していた。
約2年間の内部闘争の結果、永井グループは敗れ去り、1988年1月21日に「同志を権力に売り渡した」などとして永井は除名された[1]。しかし永井の影響力は除名後も残った。
1989年6月25日午前3時30分頃、永井が住む埼玉県川口市のアパート2階に黒ヘルメットを被った6・7人の賊が梯子を伝ってベランダから押し入り、就寝中の永井を寝袋に押し込んで自動車で拉致した。凶行に当たっては周辺の電話線を切断するという周到さであった[1][2]。
同日午前11時頃、永井は自宅から約40キロ離れた茨城県牛久市のトンネル内で寝袋に入れられ、ビニールシートに包まれた状態で撲殺体となっているのが通行人によって発見された。鈍器で全身を滅多打ちされたために顔も判別できないほど遺体の損傷が酷く、警察は指紋からようやく永井だと判別できた
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