警察沙汰にもなった明大「立て看板」3 〜明大で荒れ狂った内ゲバ殺人
上写真は、警視庁指名手配写真
左下の「後藤あざみ」は革労協・現代社派の女殺人テロリスト。福岡で敵対する赤砦社派の福井大生を殺した後、下記の真鶴事件でメッタ刺しの返り討ちに遭い瀕死の重傷を負った。かろうじて救命。しかし、あざみなんて名前、名付けた親の顔が見たい。アザミなんて痛くて触れんだろうが?ついでに左上の外園悦夫はついこの間(2023年11月)、潜伏先の茨城県で公安により逮捕。50年間潜伏の革命の老闘士!(76歳)
警察沙汰にもなった明大「立て看板」1 〜昭和の暗い残像
警察沙汰にもなった明大「立て看板」2 〜狭山事件と革労協
警察沙汰にもなった明大「立て看板」3 〜明大で荒れ狂った内ゲバ殺人
警察沙汰にもなった明大「立て看板」4 〜ヤフコメの反応
革労協内での内ゲバによる離脱リーダーの惨殺は、かつてソヴィエト共産党で内部の路線闘争に勝ったスターリンがメキシコに亡命した政敵トロツキーに刺客を送って、ついに殺したのとよく似ています(トロツキー頭部への殴殺だった点もそっくり)。さて、永井啓明を惨殺してその影響力を排除した革労協狭間派ですが、その後またしても内部分裂します。
wiki記載です。
永井殺しは大きな衝撃を与え、人民新聞でも大きく取り上げられた。東アジア反日武装戦線の死刑囚の一人は「一日中、ショックがとまらなかった」と書いた。その後の中核派の革マル派に対するテロの放棄と、大衆運動、労働運動、杉並選挙重視への路線転換、穏健化によって、路線転換を拒否する「唯一の過激派」の狭間派は政治的な孤立を深めていった。
1999年(平成11年)5月、革労協の拠点であった明治大学で「明大ゴスペル愛好会」との闘争が激化した。「明大ゴスペル愛好会」は韓国からの留学生が主体のヨハン早稲田キリスト教会系の偽装サークルで、キリスト教原理主義の立場に立ち、政治的には反共とシオニズム支持(クリスチャン・シオニズム)であった。革労協は同愛好会を襲撃をするも返り討ちに合い、警察へ突き出されるなどの失態まで出すことになった。そこで明大ゴスペル愛好会への対応をめぐり、闘争をやめて事態の鎮静化を図ろうとする穏健派の山田茂樹ら反主流派(後の赤砦社派)と、徹底抗戦を主張する強硬派の狭間、千木良ら主流派(後の現代社派)が対立。以前から革労協内部でくすぶっていた現代社常任幹部(狭間派)と全学連・寄せ場労働者などのメンバー(赤砦派)の対立が表面化する。特に山田茂樹が個人の判断で勝手にゴスペル代表者と手打ちをしたことで、狭間嘉明の怒りを買い杉並区高井戸の「現代社」での反主流派への査問が始まった。
韓国系キリスト教原理主義団体の「明大ゴスペル協会」に対して敗北した結果、さらに内部分裂したわけです。
その際、山田茂樹ら反主流派は革労協内部での劣勢を立て直すため、ひそかに革労協のシンボルである現代社の乗っ取り計画いわばクーデターを画策した。しかし社防隊が手薄となるゴールデンウィークに狙い定め実行するも失敗。反主流派は逆に外部へと放逐される形で追い出され、現在の台東区入谷の賃貸マンションに新拠点の「赤砦社」を置き、山田茂樹をリーダーとして、革労協の分裂が決定的となった。
ここからがいよいよ内ゲバ殺人本番の幕開けです。
1999年(平成11年)6月4日、現代社派のテロ部隊が山田茂樹を襲撃、全身打撲で瀕死の重傷を負わせる事件が発生。山田は現在もその後遺症により、単独での歩行に困難をきたしている。赤砦社派はこの襲撃を受け、さらなる襲撃に備えるために明大学内サークル室に搬伸縮式鉄パイプや特殊警棒、金属バット類を搬入したが、それを理由に警察が家宅捜索に入り、8日に中心メンバー17名が凶器準備集合罪で逮捕され、赤砦社派は危機的状況に陥る。ここで現代社派は赤砦社派の手薄に乗じ、12日、明大駿河台の学生部隊(=赤砦社派)に向け、現代社派は私服部隊で武装潜入をかけ、明大学生会館内の赤砦社派に握られていた革労協拠点の奪還を図るが未遂に終わる。
1999年(平成11年)7月、最大の学生拠点である明治大学は両派攻防の主戦場となった。7月2日、まず赤砦社派は学内で同派にとっての「目の上のタンコブ」、元明大生協理事の現代社派の荻野佳比古をターゲットとする。荻野は松戸市で出勤中のバイクを倒され、側頭部のみにハンマーで連打を浴びせられ、その場で絶命した。明らかに殺害目的のためのテロだった。
*全日本学生自治会総連合(伍代委員長)の記載
7月2日午前11時頃、千葉県松戸市岩瀬の路上で(*註 国道六号線のこと)、同志長田(荻野)佳比古が、親ファシスト―ミニ・スターリン主義私的サークルグループに襲撃された。襲撃者はオートバイで出勤途上の同志に襲いかかり、引き倒し、ヘルメットをはぎ取って側頭部のみに打撃を集中しハンマーをうち下ろした。この襲撃をうけて、同志長田は無念にも死亡した。
7月21日、狭間派は7・2の報復として神奈川大出身の赤砦派メンバー相川一郎(中山一郎)明治大学生協職員を襲撃し、相川は翌日絶命した(駿河台の明大生協入り口でハンマーで殴殺)。狭間派はこの人物を「木元派をつくれと山田をそそのかした正体不明の撹乱分子」と呼んだ。
2000年(平成12年)2月8日、福岡の赤砦社が現代社派のゲバ部隊に襲われ、現地に派遣されて常駐していた福井大生片岡利和が殺害された。福井大生を殺害した部隊は、朝の犯行から夕方まで福岡市内で潜伏していたらしく、同8日夕刻博多発東京行きの寝台特急にカップルを装いこの二人は乗車していた。
ところがこの時点で既に赤砦社派はこの二人(註:福井大生を殺した現代社派ゲバ部隊)の捕捉に成功しており、そっと同じ列車に乗り込んでいた。彼らを載せた列車が熱海駅に停車すると偽装のためか二人は下車し、上り在来線普通列車に乗り換える。そして二つ目の真鶴駅に到着したとたん、追っ手の出刃包丁で武装した赤砦社派による襲撃が列車内で始まり、衆人環視のなかこの二人はメッタ刺しになる。この襲撃で男性幹部のキャップ柿沼忠は駅のホームで絶命。同行の女性幹部後藤あざみも失血死寸前となるが、周囲の懸命の配慮(救急車搬送よりも小田原駅近くの総合病院へ、このまま血の海と化した車両を動かしひん死の後藤を動かさずに運んだ)により一命を取り止める。赤砦社派部隊は、真鶴駅先に逃走用車輌を用意しており、犯行後に改札口を跳び越して逃げてきた彼らを回収して姿を消した。
2000年(平成12年)8月30日 朝の通勤ラッシュで混み合う鶯谷駅東口を降り立った赤砦社派の女性メンバーリーダー格、明大生協従業員組合書記長片山美恵子が、マスク姿の現代社派部隊に襲われ衆人環視の中で全身をメッタ刺しにされ、即死。犯行を終えた襲撃者らは改札口を飛び越えて離脱、待ち受けていた盗難車に乗って行方をくらました。襲撃者らの武器は小型出刃包丁やクリ小刀だった。致命傷となったのは肋骨に逆らわないよう、刃を横にして彼女の心臓にまで達するよう出刃を突き立てたものだったと報じられた。この手段を選ばない犯行、血の海となって残された犯行現場のむごたらしさに、駆け付けた下谷警察署の警察官も言葉を失ったという。
これらの身の毛もよだつ殺人事件の連続は自分のきわめて身近にも起こりました、「えっ!あんな所で内ゲバ殺人があったのか!しかもまだそんな過激派たちが活動していたのか!」と当時新聞を読んで戦慄を感じました。まさに血で血を洗う殺戮テロで、ヤクザの抗争も顔負けです。こんなことがたった20年前横行していた事実に、書いていていまだに慄然とします。
この後、ついに明治大学が行動に出ます。
現代社派、赤砦社派の対立が激化し、明大生協職員が2人も殺害されるという結果が生じたため、「大学の対外的イメージの悪化」を恐れた大学側は、片山美恵子の殺害事件が新聞沙汰となるなかで遅ればせながら強硬策に転じる。これまでの赤砦社派との「共存」を放棄、《双方が殺人の応酬をしており、事実凶器類も押収されるなど、キャンパス全体を生命の危険から守るため…やむを得ず》との大義名分を獲得する。そして公然と突き出されてきたのが警察・ガードマンによる赤砦社派を先頭とした新左翼系活動家の学内からの締め出し。徹底した入構禁止。さらに、生協解体、二大学園祭(駿台祭と生田祭)中止といった対革労協(=生協)施策を次々と打ち出した。駿河台キャンパスでは門や扉に、オープンな敷地構造だけに「通行人にも見える」位置に明大当局の名で『これら以下の者らは本学生ではなく…』と、両派の「明大担当」らしき人物の本名が羅列されたビラが貼りめぐらされた。いわく、『立ち入った場合は直ちに法的措置となる』旨の警告文があちこちに最後通告として掲示される。これらの措置によって明大当局+狭間派の”主敵”である赤砦社派の活動拠点は奪われ、資金源となっていた生協・自治会費からのみかじめ料収入が全面的に断絶される。この措置により赤砦派だけでなく革労協にとっての金城湯池=明大は永遠に失なわれてしまい、全体的にも両派は深刻な打撃を受けた。現在にいたるも革労協両派は明治大学から完全に締め出されている状態が続いている。
しかし、事態はまだ続きました。
内ゲバ戦争終結か、と思われたその矢先の2004年(平成16年)6月2日、東京三ノ輪のマンションにある赤砦社派アジトを出てきた3名のメンバーが現代社派テロ部隊の待ち伏せ攻撃を受ける。早朝、通学の小学生の前で出刃包丁やハンマーなどによる襲撃で、逃げ遅れた千葉大生の五十嵐(武本)全学連委員長、駒澤大生の小山(高山)元全学連書記長の2名が出血多量のためその場で絶命。
目撃した小学生達は、その血しぶきをあげて惨殺される活動家達を見て、生涯忘れることができないトラウマになったのでないでしょうか?今でこそ明治大学駿河台キャンパスにはスタイリッシュな高層ビルが建ち並び、MARCH筆頭の大学として受験生の人気を集めています。しかし、こういう過激派殺人鬼の亡霊たちはいまだに明大周囲でうごめいていると思われ、かつての拠点だった明大奪取を虎視眈々と窺っているのでないかと感じます。
再びAERAの記事に戻ります。
A輔さんもB美さんも、この3月で大学を卒業する。B美さんは就職に伴い同好会から離脱するが、A輔さんは「今のままでは不完全燃焼。聴講生などの制度を利用して、あと半年か1年くらいは籍を置こうかな」と話す。
「僕たちのSNSの発信に対して、何人かの明大教授が賛同を示してくれています。今回の要望書で納得のいく回答がもらえなければ、教授たちの署名を集めた上で、改めて要望書を提出したい」(A輔さん)
その賛同する明大の教授はいかなる出自なのか知りたい。今も1970年代に左翼セクトに所属した経験がある大学教員が各地に残っているのは、周知の事実です。
今回この記事を書いたAERA dot.編集部の大谷百合絵氏は、1995年東京都生まれ。国際基督教大学教養学部卒業だそうです。当然革労協の全盛期(と言うのかな)を知らない世代です。
かつての大学紛争とはまた違った形で、「自由な言論」を求めて大学側と対峙することを決めた学生たち。立て看板をめぐる“闘争”の行方やいかに。
と締めくくっていますが、私はあまりに能天気すぎる紹介記事でないかと、危惧します。
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