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龍土軒 〜また行きたいフランス料理名店

(港区観光協会サイトから転載)


「置かれた場所で咲きなさい」1 〜渡辺和子氏の生涯
「置かれた場所で咲きなさい」2 〜渡辺氏を真似できないこともある


龍土軒」の名前を初めて知ったのは、二・二六事件を調べていた時です。二・二六事件は日本陸軍が起こした第二次大戦前の日本最大のクーデタ事件です。二・二六事件の首謀だった日本陸軍の青年将校達が、このフランス料理店を密議の場として頻繁に使ったとありました。陸軍の将校たちがどれくらいの給料をもらっていたのか定かでありませんが、一般人よりは相当良かったはずです。二・二六事件に関係した将校たちが所属していた陸軍第一師団の歩兵第一連隊や歩兵第三連隊は港区麻布・赤坂にあり、龍圡町にあったこの店が近かったのでしょう。実はこのフランス料理店は1900年(明治33年)創業で、現存する日本のフランス料理店では最古と言われています。龍圡軒は地名からとりましたが、明治時代末には文豪達の「土曜会」の会合場所として用いられ、田山花袋、蒲原有明、国木田独歩らが集まりました。後に「龍土会」と名称変更したそうで、龍圡軒の名前は昔から有名だったのです。現在龍圡町は地名として存在せず、六本木7丁目となっています。また歩兵第一連隊があった場所一帯は新国立美術館や東京ミッドタウンとなっており、往時を偲ぶことはできません。龍圡軒も移転しており、現在入っているのは新築されたビルの1階です。


 私がこの店が21世紀の今でも存在することを知り、何度か訪れております。出されるフランス料理は正当派のフランス料理で、一昔前のヌヴェル・キュイジーヌや最近の軽いイタリアンなどとは一線を画します。重厚で19世紀からの古典料理を彷彿とさせます。以前に書いた印象をここに記します。

今の時代に貴重な正統派フランス料理


かつてパリに居た時色々な料理を試しました。絶えずフランスに流入してくる移民たちが与える文化刺激はフランス料理のジャンルも随分変えたと思います。明治時代日本に来た欧米の料理も、とんかつのような日本独特の洋食を創り上げました。しかし源流となる料理には今も様々なヒントがあるように思います。

 年末も押し詰まった29日夜の来訪です。1990年代大変だった私のフランス留学時代、色々助けていただいた先生とご一緒しました。クリーム色を基調としたインテリアは穏やかかつ清潔で、これからの料理を期待させます。キールで乾杯して最初のamuse gueuleはムールのグラタン。冬らしい開始でした。続くスープはカリフラワーのポタージュ。穏やかな味で滋味深い。ボルドーの軽い赤はボルドーというよりロワールのワインのような香り(スミレのような)で、ちょうど良かったかも。続く魚料理はサケのムニエルですが、赤黒いマデラソースが珍しい。サケみたいな淡泊な魚だと今時のフランスならベアルネーズのような濃いソースで供するのが普通ですが、こちらの方が繊細な魚にはいいかも。サケも銀ザケのような太った養殖ものでなく天然のシロサケ。最後の肉料理はコンフィ・ド・カナールで、僕はこのフランス南西地方のカモ料理が大好物です。フランスだと添えは定番のマメ料理のcassouletですが、ここはジャガイモ薄切りをカモの脂でソテーした軽いものでした。コンフィは思わず骨までしゃぶってしまいます。最後までパンが欲しい料理で堪能しました。デザートは盛り合わせで、オレンジコンフィなど果物を使ったもの。コーヒーで締めくくりました。

 最後に店ゆかりの226事件関係者の礼状など見せていただき、往時のものとは思えない鮮やかな墨痕に驚きました。安井少尉や香田大尉などよく知る将校たちの名前が連名中にあります。226事件は重大な脅威で時代の転機となったので、色々考えます。しかし我々だと辞世の句にこんな流麗な書を到底書けないと感嘆しました。オーナー夫妻の丁寧な見送りを後に町に出ました。西麻布の辺りは時代先端のレストランが溢れており、その活況を見るとちょっとしたタイムトリップをした気分でした。夫妻ができるだけ長くお元気に過ごし、この正統派フランス料理を他の方々にも味わっていただけたらと思います。

上にも書いたように、龍圡軒には二・二六事件に関係した将校達の揮毫や絶筆が数多く残されております。シェフにお願いすると、この貴重な品々を拝見することができます。私個人としては、この青年将校達の起こした無謀なクーデタには決して賛同できません。しかし、彼らが憂えた当時の日本の地方、特に東北地方の農村部の困窮ぶりを考えると、その直情さには感慨があります。龍圡軒で最後に味わった料理は、彼らにとっていかなる記憶となったか。その僅か半年後に全員銃殺となりましたが、二・二六事件事件を陰から煽動した真崎甚三郎など陸軍の皇道派の首脳たちは第二次大戦後ものうのうと生き続けました。このことは父親を二・二六事件で殺された渡辺和子も激しく糾弾しています。


 この事件には事件発端となった歩兵連隊とも近い旧制麻布中学の関係者もいます。


丹生誠忠(にう よしただ)(仏心会サイトから引用)

明治四十一年十月十五日、海軍大佐丹生猛彦氏の長男に生れた。母は陸軍中将大久保利貞氏の女であるから、純粋の薩摩隼人(はやと)である。しかし少年時代は父の任地を転々とし、生地の鹿児島市草牟田町に生活したのは大正十三年に、鹿児島一中(註 現在の鶴丸高校)に転入した時だけで、それもわずか一年ばかりで上京し、東京麻布中学に入つた。ついで陸軍士官学校に入学、昭和六年に卒業した。四十三期生である。同十月、少尉に任官と共に歩兵第一連隊付となり、九年三月中尉に進んだ。翌年、東京に住む山口滝之助氏の娘、寸美奈子と結婚した。なお母方の関係で、当時の内閣総理大臣岡田啓介大将と姻戚(いんせき)関係になっているのも、奇縁である。

丹生誠忠の辞世の句です。

身とともに名をもけがして大君に

つくす誠は神や知るらん

強く生き優しく咲けよ 女郎花


昭和十一年七月九日 


誠忠

続けて卒業生でないですが、もう一人。

中橋 基明(なかはし もとあき)(wikiから引用)

東京牛込に、陸軍少将の父と華族の母の間に生まれる。本籍地は佐賀県。四谷第二小学校を首席で卒業。父の意向で東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、麻布中学を受けるも不合格。結局、名教中学(現・東海大学付属浦安高等学校・中等部)を経て東京陸軍幼年学校に入った。


陸軍士官学校第41期生となり、同期には栗原安秀、対馬勝雄がいる。この2人とは二・二六事件の同志となるが、この頃交友があったかは不明。しかし栗原とは同じ中隊で、区隊も隣同士、同じ中学出身である。中橋はこの頃、軍人として生涯を全うする決意を固める。『義を見てせざるは勇なきなり』が座右の銘だった。

中橋基明の辞世の句です。

今更に何をか云はん五月雨に 只濁りなき世をぞ祈れる


麻布中は戦前から東京の名門私立中学として知られていましたが、二・二六事件の関係者がいたことは龍土軒に行くようになって初めて知りました。近いうちにまた龍圡軒に行ってみようと思っております。