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独裁の世界史 :高校「歴史総合」に適した本

21世紀はどういう発展があるのかと思って期待しながら2001年を迎えた身ですが、2001年アメリカの9.11同時多発テロに始まって、ひどい世紀になりそうだというのが偽らざる感想です。急速に発達した移動や物資輸送でグローバル化が促進し、開放的な気分が盛り上がるのかと思ったら、かえって各地の違いに対する関心が先鋭化して国や社会階層による分断化と排他意識が顕著になったように感じます。地政学という言葉は以前からありましたが、最近俄然注目されるようになったのはそういう背景があるからでしょう。


 今日本だけでなく世界的に大きな脅威を感じさせているのは、ロシア・中国の2つであることは論を待たないと思います。もともと民主主義とは相容れない素地があるように感じていましたが、最近非民主的な要素が激増しています。なおかつどちらも世界経済を左右する大国になってきたため、その影響力は他の国々も無視できないものです。
 木村凌二氏は古代ローマ史がご専門のようですが、本書では古代ギリシャから現代に至るまで、民主制と独裁政治の相克を手際よく俯瞰しています。もちろん専門の古代ローマの政治形態の変遷は詳しく触れられていますが、改めて思うのは古代ローマの政治家はスター揃いだなということです。夜空に煌めく星座を思わせるように特徴ある人物が数世紀以上にもわたって次々と登場する国は、そうそうないでしょう。古代ギリシャの変遷も詳しく触れられており、昔高校や予備校で習った世界史を懐かしく思い出しました。


 木村さんのこの本が面白いのは、その後の歴史で現れた民主制度や独裁制をそれらと照合しながら見解を述べている点です。独裁制というとヒトラーやスターリンのように悪の権化みたいに捉えてしまいがちですが、古代ローマの皇帝のような独裁者が必ずしも悪とは言えなかったという評価は注目に値します。木村さんは政治家が持つ「人徳」によるのだと述べています。どんなに政治的に優れた能力があったにせよ、過激な事を躊躇せず、また政敵と目される反対勢力を完膚なきまでに撃滅する独裁者は、最終的に破滅するとしています。
 今世界の民主主義国家を苛んでいるのは、ポピュリズムでしょう。表面的に口当たりいいことをいう政治家が大衆を引きつけて煽動する。アメリカのトランプやブラジルのボルソナロだけでなく、世界各国にその亜型が出現しています。古代ギリシャの民主制もデマゴーグの出現で変性・崩壊していきましたが、所詮ポピュリズムは民主主義とは切っても切れない関係だと看破しています。


 ただ木村さんは言及していませんが、現代のポピュリズムが今まで違うのはインターネットの力を思う存分利用している点です。昔だったら他に影響を与えようとしたら対面の演説が第一、次が書籍の刊行でしょうか。いずれにしても相応の資金力が必要で、だれでもかれでも出来ることではありませんでした。それに金をかける以上内容に対する吟味も正邪に拘わらず、真剣におこなわれてきたと思います。ところが現代のインターネットはだれでも発信・受信ができます。しかもネットを統率する管理者も不在で、過激になることを抑制する安全弁も存在しません。玉石混淆で真偽不明のデータが大量に存在し、なおかつ今後も増える一方です。インターネットに参加するひと自身の判断が重要だと申しますが、間もなく人間の能力の限界を超える気がします。そこで登場するのが人工知能やデータサイエンスです。人間の五感での制御を超えてきた情報の洪水を上手に操作できるよう支援することを期待されていますが、果たしてどうなるでしょうか。SFではもう何度も取り上げられてきた人工頭脳による世界支配です。人類史上いまだかつてなかった「独裁者」の誕生になるかもしれません。その人工頭脳には果たして「人徳」があるのでしょうか。私は情報科学の専門家でないのでまったくわかりませんが、21世紀が新たな形態の独裁政治の世紀になるかもしれません。


「独裁の世界史」木村凌二著 NHK出版新書 2020.10


高校社会の「歴史総合」ではこういうテキストを基底にして学ぶべきだと思います。前紹介した岩波新書の戯言など、何の役にも立ちません。

数痴と受験数学

「地理と地形でよみとく世界史の疑問55」 〜図が良い
昔の京大医学部受験生のブログ(1)
数学の能力に先天性要素はない? 〜信用できません(苦笑)
京都大学の数学科卒の人が「大学の数学は難し過ぎて全然意味がわかりません」と言っていたのですが、京大生でも難しいと感じるものなのですか?


 日経新聞(2023年1月9日)に石井志保子氏が「女性の才能もっと発揮をー数学五輪、今年は日本で」と題して寄稿されていました。内容として日本の女子高生の数理系への進学が他国と比べて少なく、怖じ気づかず数学五輪を含めてもっと積極的に進んで欲しいということを述べています。記事の中にある数学博士号取得者女性比率の各国比較グラフをみても、日本は断トツに少なく、お隣の韓国が40%超なのに日本はわずか5%程度となっております。欧米先進国でも30%前後なのに比べても劣ります。日本の場合、大学で理科系に進む女子がもともと少ないです。薬学、医学など医療系を除いて、工学などを筆頭に女子比率が少ないです。その原因のひとつが入試の数学でないかと思います。入試で数学の問題が難しかったり、配点比重が高い大学・学部ほど女子比率が低い傾向は否めないでしょう。


 数学の才能に性差や遺伝といった先天的な要因があるのかという疑問に関しては、はっきりした調査研究はありません。しかし石井氏も本稿で言及しているフィールズ賞受賞者で、女性は過去に1人しかいない事実は性差があることを厳然と物語っています。ノーベル賞の自然科学3分野でも男性優位な傾向ですが、フィールズ賞は突出しています。石井氏には申し訳ないですが、数学に関して男性脳・女性脳が存在することを暗に示しています。
それに対して、遺伝的な要因が数学の才能あるいは能力に関係するのかは示唆するデータもないです。ですが友人とか親戚をみると数学に強い家系はありそうだなと感じます。しかし、そういう家系はかなり少ない印象で、一般的には10に1つもないかなと勝手に推測しますが皆さんどう思うでしょうか。


 昔駿台予備校には数学科で有名な講師がきら星の如く並んでおりました。根岸先生、中田先生、野沢先生の3人のベテランがそれぞれ特徴ある授業をおこなって人気があり、我々はそれを3Nと通称していました。その3Nに新たなNとして登場したのが、長岡先生です。あとで長岡(亮)とつけられてましたが、実は兄弟で数学を教えており、兄の亮介先生です。ベテランの3Nもすばらしいですが、長岡師は若くて新鮮な印象でした。あまり予習しないで問題を解いており、時々間違えたりするご愛敬もありましたが、それでも初手でその場で解く力はすごいと感心しました。二日酔いの時もありましたね(本人が二日酔いで考えがまとまらんと言っていた)。当時の駿台の授業は共通一次後2週程度で終了で、ちょうど今の時期は終了間近です。最後の授業でそれぞれの先生が2月入試に向けて、最後の激励をおこなうのが通例でしたが、これは今も同じでしょう。長岡先生も最後のはなむけの言葉を述べましたが、いきなり「皆さん、音痴って知ってますよね?」と語り出しました。はあ?何話すの?と思ったら、続けて「僕はね、数痴というのもあると思うんですよ」と言いながら、「数痴」と黒板に書きます。聞いている学生たちは呆気にとられていたと思います。「数学の能力は我々のご先祖様がマンモスを狩っていた頃から、生き抜くのに必要な力でなかった。だから数学力で淘汰はなかったんです。」と仰る。「数学のセンスは先天的なもので、音感がない音痴と同じように数痴はある。しかも音痴と違って、数痴は大半のひとがそうでないか。だからといって皆さんが数学センスがないと嘆く必要はない。所詮大学入試の数学程度で数学力なんて関係ない。だから気楽な気分で入試に臨んでください」。確かそんな内容でした。励ましているんだか貶しているんだかさっぱりわからず、ただ如何にも長岡先生らしいなあと思って腹も立ちませんでしたね。
 かく申す私は、長岡説に従えば間違いなく数痴でしょう。入試数学こそ満点を叩き出しましたが、まあ僥倖の類いです。高校入試はそこそこの難関校でも数学以外の科目で結構挽回できますが、大学入試で理系は数学で失敗するともう勝ち目がないです。お陰様で苦労しました。大学に入ると数学ものすごく得意な同級生がいてやはりかなわんなと思いましたが、医学部だと全体の3割くらいでしょうか。そんなに多くなく、多数派は自分と同じ数痴なのかな。理学部ではこどもの様子から、医学部では絶対見ないような天才的な数学力を発揮する学生が一定数いるようです。しかし、それも決して多数派ではなさそうでした。数学力は生存には役立たない。もう一種の脳力の遊びの類いでしょうか。イタリアは音楽が盛んな国としてよく知られていますが、じゃあイタリアは音楽教育にものすごく熱心かというとそうでもないそうです。一般的に音楽をする能力は一種の天性の才能、すわちギフトであり、それがあるひとだけが教育を受けて才能を伸ばしていけばよいと考えられているそうです。12月の日経「私の履歴書」はリッカルド・ムーティでしたが、彼の自伝はまさにその路線の上を歩んでいます。


 ところで大学入試で試される高校数学は、基本的にガロア以前の18世紀までの数学です。理科では生物を初めとして21世紀の先端的な研究にも入試で触れることがあるのとは、対照的です。少なくとも言えることは、大学入試の数学力だけでは大学・大学院の数学専攻の力を測ることはできないことです。数痴もなにも大学受験でそのチカラが問われることはないというのは、長岡師が言う通りなのでしょう。ガラケイと同じで日本の入試数学は高度に手が込んでおり、しかしながら将来発展性を模索するようにもなってない点が気になります。ちょうど今の時期おこなわれる共通テストの数学では、2021年平均点が極端に下がって批判を浴び、社会的にも大きな話題となりました。しかしその新しい方向の模索が、石井氏が仰る数学敬遠派を少なくする原動力になればすばらしいことですが。2023年の出題(2023年度入試)はどういう内容か楽しみです。

医学部進学課程と旧制大学予科制度からの推移

この文章は旧年12月に書いた

の話の後半を分離して、新しく加筆した内容です。


旧制高校は基本的に旧帝大の各学部に進学する制度ですが、幾つかの帝大には予科も置かれました。予科は基本的にそれを付置する大学に進学するためのコースで、旧制高校のように何処の大学でも自由に受けられるわけではないです。国内の帝大や旧六医大で予科があったのは北大だけですが、逆に旧制の私立大はほとんどが予科を設けていました。
 実は今もその残像があります。私は医学部に進みましたが、私が入った大学は当時「医学部医学科」の募集ではなく、「医学部進学課程」の募集でした。なぜ「進学課程」なのかよくわからなかったのですが、実は第二次大戦後になり、GHQの指導で医学教育は医学部進学課程と医学部に分けられたところから始まっています。医学を学ぶためには何処かの大学の学部に設けられた「医学部進学課程」に進み2年学修した上で、さらに専門課程の大学「医学部」を受験する体制になっていました。つまり普通の大学学部とは違う編成だったのです。これ基本的にアメリカの医学校から来る発想で、アメリカでの4年間collegeでliberal arts and sciences(訳すなら教養学部)を修めてから、大学院相当のmedical schoolを受験する制度を踏襲していました(collegeとmedical schoolは完全に別の学校で、医学を学ぶ前に幅広い教養教育が必要とアメリカでは考えられている)。日本では、新制国立大のみならず旧制高校から新制大学に移行した医学部がない私立大の一部にも「医学部進学課程」が新たに設けられました(武蔵大、成蹊大、成城大など)。これは国立大医学部は他大医学部進学課程修了者も受験でき(というかそれが推奨されていた)、また私立大医学部一部には医学部進学課程がなく他大の医学部進学課程修了者を募集していたためです(東京慈恵会医大や日本医大など)。GHQ(=アメリカ)の指導の理にかなっていますが、医学部進学課程は2年で修了なので、それが設置された大学を卒業した型にはならないという問題がありました。また国立大では医学部進学課程は医学部とは別学部に置かれることになっていたようで、理学部に多かったようです。しかし当時から医学部進学熱が非常に高く、医学部進学課程以外の理学部入学者でも医学部を受けようとする者が多くなって理学部教授陣の不満が強くなりました。それに母校のように旧制私立大医学部で予科があったところでは予科の代わりに医学部進学課程が設置されたところも多く、そういうところでは進学課程は医学部に付置される形式になり、実質無試験で医学部に進めました。医学部進学課程は制度的にさまざまな矛盾が多くなったため、1960年頃までには多くの医学部進学課程は医学部に付置される形式になり、医学部進学課程は実質その医学部単独の教養課程となりました。しかし医学部進学課程が正式に廃止されたのは1991年で、私が受験したのはその前だったのです。
 ちなみに私入学時の頃、医学部進学課程が2年でした。我々はそれを「予科1」、「予科2」と言い慣わしていましたが、これ戦前から連綿と続く予科制度の名残だったわけです。いずれにしても「予科」の2年間は自由で遊びが多かったと同時に、広範な知識を学ぶのに絶好の機会でした。教養教育はその後の自分形成に重要な機会だったと、40年経つ今しみじみと思います。今母校でも完全な教養教育は1年間のみとなっていますが、その1年生を「予科」といまだに呼んでいるのかな?しかし、いかに専門課程の内容が多くなったため、文科省の教養教育縮小方針のためとはいえ、教養教育の機会が少なくなっていく日本の高等教育は大丈夫なのかと不安になります。
 旧制高校では語学が非常に重視されたせいで、戦前は2カ国語以上の外国語を操れるエリートは多かったようです。しかし今1年の教養課程で新しく学ぶ第2外国語を完全に修得できる学生はまずいないでしょう。日本の外国語教育は英語一辺倒で、小学生からですら英語を学ばせようとしています。一方英語以外の外国語修得はますます軽視され、欧米の知識層で割合見られる3カ国語以上操れる人材は日本では非常に少なくなると思います。単に「日本は第二次世界大戦前までのように、欧米からの輸入学問にすがる時代ではなくなったのだから、外国語は英語だけでいい」とは思えません。いかにAIや自動翻訳が今後進歩するとはいえ、各国の言語のニュアンスを細かく伝えるのは至難です。社会活動のグローバル化が進むことと、英語のみで共通コミュニケーションを図ることはまったく別次元でしょう。日本人がどんなに英語を話せるようになったとしても、日本語を話す日本文化の存続とは関係ないです。また自分の脳で複数の言語を処理する力は何かもっと別の重要な意味があるのでないかと私は感じます。医学部進学課程にとどまらず大学教養教育体制でこのままでいいのか、こういった面からも私は不安を感じています。