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日常考えたことを書きます

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ごりの佃煮

ごりの佃煮(追補)
昨日は新型コロナの二価ワクチン接種に出向いたついでに、同じビルにある大型書店をうろつきました。久しぶりに荷物が少ない外出で、つい本を買い過ぎてしまい、反省。魯山人の本も久しぶりに手に取りました。魯山人関係の本は若い頃から何冊も買っているので、知らないエピソードはほとんどありませんが、「ごりの茶漬け」が出ていて思わず購入。まあ、以前も読んだことがある話ですが、本が「興陽館」というあまり聞いたことがない出版社だったことも興味を引きました。


 魯山人は「ごりの茶漬け」の項で、ごりがいかに美味い魚か力説しています。戦前の昭和でもごりは京都ではすでに稀少な魚だったようで、「値段がかなり高い」と書かれています。「いろいろな種類」と書かれているので、はて?ごりとはカジカのことでなかったか?と思い、今ちょっと調べました。そうしますと実にさまざまな川魚の総称だったのですね!ヨシノボリのようなハゼ科からドンコ科、カジカ科などを含むようです。そうかあ、ごりといってもそんなに色々なら、味も一定ではないなと思いつつ、これからを書いていきます。
 魯山人は「佃煮にするほどにはなかなか獲れないのに、その佃煮でつくるごり茶漬けは天下一品のぜいたくと言われる」というようなことを書いています。実はこのごりの佃煮、私は大好きです。私の伯父は昔日銀に勤めていて、あちこちの支店を転勤していました。伯母がその地方地方の特産物を時々送ってくれていたのですが、その中で特に記憶に残ったのが金沢の物産です。「金沢は美味しいものが多いのだ」とそれで知りました。そのひとつがごりの佃煮です。ごりは小ぶりで頭が大きいのが普通のハゼと違います。佃煮を噛みしめると何とも言えないうま味が口に拡がりました。これで白飯を食べるのは何ともいえないゼイタクに、子供心ながら感じていました。
 その後伯父は日銀を退職して、故郷の富山の銀行に就職しましたが、ほどなくしてがんに罹りました。まだ40代だったと思いますが、悪性の進行性胃癌で1年経たないうちに亡くなったと記憶します。年齢から考えると悪性度の高いスキルス(硬癌)だったのじゃないかと、今思います。伯母はその後東京に戻り、数年前80過ぎで亡くなりました。金沢とは縁が切れてしまったので、このごりの佃煮もすっかり忘れていましたが、伯母の死去を契機にまた思い出しました。「あれ、もう一度食べてみたい」と思い、ネットで調べると意外と簡単に金沢のごりの佃煮が見つかりました。50年以上前と同じようなパッケージで、他の佃煮と詰め合わせになっています。懐かしくて思わず取り寄せました。早速食べてみると、昔と同じように噛みしめるとじんわりうま味が出て来ます。いわゆるハゼの佃煮とはまったく違います。ほんと、小学生の時食べたのと同じ味で、変化の激しい日本で同じような味を維持できていることに感動しました。
 美味しかったので、その後も取り寄せましたが、今度は何となく魚体が小さいです。なんか違うのかなと思いましたが、食べてみるとやっぱり美味しいです。おそらくですが、季節によって獲れる「ごりの種類」が違うのかも知れませんね。前回のお取り寄せは夏だったので、秋が深まる今また注文して確かめようと思います。
 しかし本来のごりとは「カジカ科」なのでないかと思います。Wikiによると、少なくとも北陸地方ではカジカ科の魚を指しているようです。カジカというと思い出すのは、「あした来るひと」です。井伏鱒二の小説で、映画化もされました。この小説の主人公が「カジカの研究者」という設定なのです。浮世離れした主人公は奥さんをほったらかしにしてカジカの研究に熱を上げ、そこで起こる夫婦のいざこざを描写した話です。娘の父親が仲直りを促すため、「冷たいエビでも食べに行ったらどうか」と娘に勧めていた段もありましたね。「冷たいエビって、何だ?車エビの踊り?」とか読んでて思いました。私はどうにも食べ物ばかりに関心が向いてしまいます。
 閑話休題。この小説でもカジカは如何にも俗世とは関係なさそうな魚として扱われています。しかし、実際には非常に大きな科で、同じカジカといっても海に棲むものから川に棲むものまで、色々です。冬になると近所のスーパーで「どんこ」と称して、大型の海カジカを売っていますが、これも鍋にするとなかなか美味しいですね。今食べている佃煮のごりが、果たしてカジカ科の魚なのかどうか、一度金沢に行ってうかがってみたいです。金沢はもう40年近く行っていませんが、今は新幹線を使えばすぐですから。


「魯山人の和食」北大路魯山人著 興陽館 2020.5.15


追記:カジカは「鰍」の漢字が当てられており、秋が旬だそうです。そうか!早速注文してみよう!
追記2:済みません、「あした来るひと」に出てくるカジカ研究者は、主人公の夫でなかったです。訂正します。読んでから40年以上経つので、記憶が混乱してました。

アントニオ猪木さんの死で思うこと(アミロイドーシス)

最初にお断りします。私はプロレスにはまったく疎く、アントニオ猪木さんの活躍もほとんど知りません。従ってその方面で書けることはないので、ご容赦ください。アントニオ猪木というと、すぐ思い出すのは友だちが昔しょっちゅう言っていたダジャレです。「燃える闘魂、煮える大根」実にクダラナイのですがもう繰り返し何度も何度も言うので、猪木のしゃくれた顎とともに頭にこびりついてしまいました。


 さてお亡くなりになった記事を見ると、「心アミロイドーシス」と書いてあります。あれ、全身性アミロイドーシスじゃなかったのかな?記憶違い?と悩みましたが、日経の訃報を読んだらはっきり「全身性アミロイドーシスをわずらっていた」と書かれていました。アミロイドーシスは難病で「アミロイドを起こす病態」という意味です。アミロイドとは「アミロースに似たもの」という意味です。命名がかのドイツの病理学者ウイルヒョウによるとのことなので、正確には「アミュルムに似たもの」でしょうか。いずれにしてもデンプンに似たものという意味です。デンプンを化学的に定性検出する方法は、ヨウ素デンプン反応です。冷たいデンプンは難溶性ですが、その薄い水溶液にヨウ素を含む水を垂らすと、一瞬にして濃い青紫色になります。この実験非常に簡単で、小学校の理科でやったことがある方も多いと思います。しかし実は非常に鋭敏な反応で、高度な分析実験でも信頼がおける検査法として知られています(大学受験の化学でも、これを利用した酸化還元反応の定量実験は難関大定番の問題)。デンプンは通常植物がつくる多糖類で、動物はつくれません(似ているグリコーゲンは結合が若干異なり、高次構造も異なる)。ウイルヒョウは動物でも病気になればデンプンをつくるのでは?と思ったようで、ヨウ素液を片っ端から検体に垂らしてみたようです。その結果、青紫とはいかないでもかなり似た黒色に染まる物質があることを見つけ、それをアミロイドと命名しました。


 しかし、結論はどうだったのかというとデンプンではありませんでした。やはり動物にはデンプンをつくる酵素がないのです。では何だったのかというと蛋白質の一種でした。しかし、それがきわめて特徴あるもので、結晶化しているのです。デンプンにヨウ素を加えるとなぜ青紫色になるかというと、デンプンのらせん状高次構造にヨウ素分子がはまり込み、その配位が発色団を形成した結果です。アミロイドの結晶化する蛋白質は化学的にいうとクロスβシートという特殊な二次構造が積み重なった構造で、おそらくここにヨウ素分子がはまると、その配位がデンプンと似た発色団を形成するせいと考えられます。じゃあ、アミロイドは特殊な蛋白質かというとそうでもありません。色々な蛋白質にアミロイドに変化する性質があります。老化して高次構造が壊れてくるとか条件が整うと、正常な蛋白質からアミロイドに変換されます。しかし全身性のアミロイドーシスは主に遺伝子変異によることが多く、もともとの蛋白質にすでにアミロイド化しやすい性質があります。それが長年にわたってじわじわと体内に蓄積し、やがてさまざまな臓器を変性させていきます。アミロイドに触れた周囲の細胞にやがてプログラム細胞死が誘発され、死んでいくことが原因ですが、どうして誘発されるのか詳しい機序は不明です。全身性アミロイドーシスの病状はゆっくり進行するので、最初はそれによるさまざまな体調不良の原因がなかなかわかりません。いろいろな可能性をつぶしていって、最後に残る可能性のひとつがアミロイドーシスとなるわけです。治療法ははっきりいってありません。僕が学生の頃、教科書に「DMSOを投与する治験もある」と書かれていました。DMSOとはジメチルスルフォキサイドのことで、大学院に入ってから大概の難溶性有機物質を溶かすことができる溶媒だと知りました。アミロイドは結晶化して難溶性のため思いついた治験と思いますが、相当な異臭があります。「患者にDMSOを服用させるのに多大な困難がある」とも書かれていましたが、残念ながら実験と違ってDMSOはまず奏功しなかったはずです。苦しい思いをしながら医者に従い、死に向かった患者さんの胸中をお察し申し上げます。


アミロイドの確定診断には検体を採取して、それを偏光顕微鏡で観察することです。動物組織は普通さまざまな物質を含む一種のコロイド溶液なので、物質が結晶化することはありません。従って結晶化物質があればまずアミロイドとなり、それを偏光を用いて検出します。結晶構造をとる物質は光を透過させる時、ある一面の振動方向のみを通過させます。従ってあらかじめ一定方向の振動面を持つ光を偏光フィルターでつくってその光で観察すると、結晶の軸方向と入射する光の振動面が一致した時だけ光が透過します。顕微鏡観察で偏光フィルターを回転させると、一致した時だけ物質がピカッと見えます。あとは真っ暗。通常の組織はずっと真っ暗なままで何も見えません。この観察はちょっと面倒なので、アミロイドに吸着されやすいコンゴ赤で染色して通常可視光で観察しますが、正確には結晶化を確認するこの偏光顕微鏡観察が必須です。


 全身性アミロイドーシスというと、慶應ラグビー部の監督も務めた上田昭夫さんを思い出します。幼稚舎からラグビーを続けていてラグビー選手としてもすばらしかったですが、知性も一流でした。指導者として慶應ラグビー部いや慶應全体を大いにもり立ててくれました。またスポーツニュースキャスターとして活躍した上田さんをご存じの方も多いと思います。その上田昭夫も全身性アミロイドーシスに冒されました。年齢以上のふけかたでものすごく痩せてしまった末期のころの姿を思い出します。アントニオ猪木さんもテレビで、「こんなに小さくなってしまったけど、これが今の僕の姿だから見てほしい」と亡くなる前に回らない口でたどたどしく語る姿を映していました。もう痛々しい姿だけど、人間アントニオ猪木の姿に強烈な印象を受けました。ひとは必ずいつか死にます。しかしその死が穏やかな流れで進んでほしいと、誰しも思うでしょう。今のところ治療法がなくじわじわと死を待つしかないアミロイドーシスにもし自分がかかったら、どう対応出来るか。アントニオ猪木さんの姿を思い出しながら、考えます。

チェルノブイリ原発事故とNHKラジオ英語会話

ロシアのウクライナ侵攻がいったいいつまで続くことなのか、占領地で強制的におこなわれている住民投票の話を聞くと、心が暗くなります。核兵器の使用可能性をちらつかせてウクライナを脅すのも卑怯な態度ですが、既存の原発に対しての攻撃もまことにリスクが高い行為です。1986年4月にあったチェルノブイリ原発事故の重大な結果を、現在のロシア共和国は一体どう思っているのでしょうか?


 チェルノブイリ(以下ウクライナ語表記に従ってチョルノービリ)原発の事故は、日本では青天の霹靂でした。当時のソビエト連邦はこれほどの重大事故にもかかわらず、一切報道しませんでした。事故後2日にスエーデンの原発で放射線の異常数値を検出して、初めて事故が発覚しました。Wikiを見ると、この時の事故のすさまじさと共にソ連の対応がいかに拙速だったか、改めて驚きます。福島原発事故と比べても、影響範囲の広さや健康被害の深刻度はとても大きいものでした。ヨーロッパ、特に東欧・北欧の汚染が深刻だと報じられましたが、日本のメディアはある時期から、その報道をあまりしなくなったように感じました。


 さてこの事故に関して今回書いておきたいのは、当時のNHKラジオ英語会話のことです。私は中学時代以来、ずっとラジオ英語会話を聴いておりました。東後勝明先生の時代からです。スキットも毎週諳んじて憶え、自分の英語力向上に大いに役立ったと思っています。チョルノービリ原発事故の時は、講師が入れ替わる時期と重なっていましたが、これから話すことは東後先生の次の講師の大杉正明先生に代わった直後でなかったかと思います。事故翌年の1987年後半だったと思うのですが、ヨーロッパでチョルノービリ原発事故で放射能汚染が心配されている話がある週のスキットに入っておりました。私の記憶だと「ブルガリアやトルコでも、ナッツ類などの放射能汚染があるそうだ」という会話も挿入されていました。その後「そうなの。日本への影響も心配ね」といった受け答えで終わったような記憶があります。


「ような」とはどういうことかと言いますと、実はこの週の英語会話が始まると、まったく違うスキット内容だったからです。その内容は今憶えてませんが、テキストには無論記載がなく、また放送でもそのスキット差し替えについての説明は一切なく、大層驚きました。あまりに驚き当然何か反応があるかと思いましたが、これについてその後も放送では一切説明がなく、翌月も翌々月のテキストにも言及がなく、また当時あった視聴者投稿欄にも何も載っていませんでした。新聞などのマスコミにも何も反応がなかったですが、私は何か大きな圧力を感じました。


 今チョルノービリ原発事故の汚染地図を見ると、東欧などの一部地域が白いことに気づきます。具体的に言うとブルガリア、旧ユーゴスラビアの一部(セルビア、マケドニアなど)、アルバニアです。またギリシャは汚染があるのに、その対岸のトルコなど中近東はまず汚染調査区域に入っていません。明らかに政治的な思惑があると感じます。英語会話では、確かブルガリア・トルコと国名を名指ししていたように憶えています。


 実はこの英語会話事件、あまりに謎だったので、今から10年くらい前ヤフーの知恵袋に投稿して、「どなたか、この一件の詳細を知りませんか?」と尋ねてみました。しかしまったく反応がなく、1月あとくらいでヤフーから「回答がまったくなかったので、削除します」と連絡されました。これを知るひとは現在アラカン世代以上だと思いますが、人々の記憶からも遠ざかっているのでしょうか


 一体なぜ原発事故汚染に関わるスキットが抹殺されたのか、僕は今も色々と考えます。ひとつは名指しされた国の大使館から、抗議されたことです。しかし国家として汚染を公表せず隠蔽するという態度の方が問題でしょう。または、これらの国から食品を輸入していた業者からの圧力です。当時ヨーロッパの農産物や魚介類の輸入に関して日本でも相当問題になり、輸入急減があったようです。ちょうど福島原発後の日本産物に対しての、各国輸入制限と似ています。「寝た子を起こすな」というところでしょうか。第三に考えられるのは、日本政府からの圧力です。我が国の原発も果たして安全なのだろうかという議論が当時巻き起こったのは、憶えています。「日本の原発はそういう無謀な実験をしないし、厳重に安全管理されている」という説明があったように思います。「対岸の火事」とはいえ、こういうスキットが世に出ると、また原発反対運動が起こるのでないかと懸念した可能性はあります。
 いずれにしても、「なぜ、このラジオ英語会話のスキットが排除されたのか」の理由が明示されないまま現在に至っていることに、僕は今も不安を感じています。