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「宮沢賢治のちから」 〜多面体の結晶

私の読書歴
盛岡 〜緑の街に舞い降りて


宮沢賢治についての研究や評論は、もう数え切れないくらいたくさんの本が出ています。文章を読むと、その独特なリズムや語感は他の真似などの追随を許すものでなく、日本が生んだ真の天才のひとりでないかと思います。なぜそういう屹立する独立峰みたいな人物が、岩手県花巻という何の変哲もない田舎に誕生したのか、私も不思議でなりません。


 その数あるひとつの「宮沢賢治論」の本として本書も発刊されたわけです。もちろん既に言い尽くされている賢治論も多いですが、それでも私が知らなかった視点が幾つかありました。まず賢治の童話に出てくる独特の地名、モリーオ、イーハトーブ、トキーオ、センダートは無論日本語から来ていますが、エスペラント語の影響だとは知りませんでした。大正から昭和初期にかけてエスペラント語が一種のブームとなり、宮沢賢治もその影響を受けたのは知っていました。しかしエスペラント語の発音で単語最後から2番目の母音にアクセントをかける習慣があることは知りませんでした。イタリア語と似ているし、実際賢治の童話はなぜかイタリアの雰囲気が漂うものも多いです。


 作家の人物そのものと作品はもちろん別物ですが、賢治があれほど心酔しかつ周囲とのあつれきを招いた日蓮宗の信仰が、作品には表面上あまり影響が見られないことは不思議です。賢治が先祖代々の浄土真宗から離れて日蓮宗に転向したのは旧制盛岡中学の時代だそうですが、何が切っ掛けだったのかは本書でもよくわかりません。ただ私が思うに、父親との確執がひとつの理由だったのでないかなと。


 「宮沢賢治が共感覚の持ち主だったのでないか」は、本書が初めて指摘した視点だと思います。共感覚とは色とか音とか本来はまったく別の事象が結びつけられて感じられることで、例えば音楽を聴くとそれが色の展開として感じられるのです。賢治の独特な表現法は旧制盛岡高等農林時代に学んだ科学知識の影響もあると思いますが、確かに山下さんが指摘するように先天的に共感覚の持ち主と考えるとすっきりします。


 宮沢賢治と「性」の関係は生涯独身だったことからもいろいろ言われていますが、本書でもその理由ははっきりわかりませんでした。ただ彼にも性欲はあったらしいことはわかりました。


 細かいことですが、宮沢賢治がトマトを特に好んでいたことは、初めて知りました。「銀河鉄道の夜」でも、病気で伏している母親の存在が娘がつくっていったという「トマトシチュー」でほんのりとイメージされています。トマトシチュー、どんな具材かな。鶏肉だろうか、それとも豚肉だろうか。まさか野菜のみ?いずれにしても昭和初期なら相当にハイカラな印象があります。今調べたところ、「トマトでつくったなにか」でトマトシチューとは言っていませんでした。

「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」

「あゝ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」

「お母さんの牛乳は来てゐないんだらうか。」

「来なかったらうかねえ。」

「ぼく行ってとって来やう。」

「あゝあたしはゆっくりでいゝんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。

「ではぼくたべやう。」

 ジョバンニは窓のところからトマトの皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。


 本書でも出てくる賢治の弟の宮沢清六氏ですが、宮沢賢治研究家にそんなに強いインパクトを与えているとは知りませんでした。清六氏が記した「兄のトランク」は未読ですが、研究者の解釈にも清六氏があれこれ介入する結果となったと暗示されています。私は高校の修学旅行で東北に行ったとき、宮沢清六氏のお話しもうかがいました。高校生相手でしたからよくわかりませんが、そんなに自分の兄について論をぶつような印象はなかったです。


 宮沢賢治、今でこそ知らぬ日本人はいませんが、生前売れた作品はわずかで同時代の童話作家たちにも低い評価しか受けてなかったことは、本当に不思議です。今でも世界でそれほど著名な作家と思われてる気がしませんが、なぜなのかな?と考えます。宮沢賢治は実家からの豊かな援助がなければ、到底生活できませんでした。その意味で「プロの作家」としては完全に失格ですが、逆にそれだからこそ彼は自分の文学的才能を存分に開花させられたのでないかと思います。「金になる本」を書かなければならないという圧力があったら、今日我々が知る作品群は生まれてなかったでしょう。


「宮沢賢治のちから」山下聖美(きよみ) 新潮新書 2008.9.20