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日大元副学長が医師法違反か 〜相変わらずガバナンスがない1

日大元副学長が医師法違反か 〜相変わらずガバナンスがない2
林日大理事長を提訴する沢田副学長 〜いい加減にしろ!(1)


読売新聞の記事です。

日大元副学長が医師法違反か…カルテ記載せずモルヒネ処方、特別調査委認定

2024/04/18


日本大学の特別調査委員会が、田中英寿・元理事長(1月死去)への薬の処方を巡り、主治医だった元副学長の男性(68)について「医師法違反の可能性が高い」と認定していたことがわかった。医療用麻薬のモルヒネを含む痛み止めを処方していたが、医師法で義務づけられたカルテへの記載がなかったという。

田中英寿元理事長は数々の不法行為を日大でおこない(脱税、暴力団との交際など)、脱税に関しては有罪となった人物です。功労もあったと言われますが、不正行為の方が遙かに多く悪を成した人物です。wikiによると

2024年1月13日4時、東京都内の病院で死去した[4][9]。77歳没[7]。体調を崩し年末より入院しており[7]、一部メディアの記事では肺の病気、又はがんで闘病していたとされる

となっていますが、はっきりした死因は示されていません。今回の読売の報道によると、

最終報告書や関係者の話によると、田中氏は18年頃に千葉県内の病院で直腸がんの手術を受け、東京・杉並の自宅兼ちゃんこ料理店で療養。「日大医学部付属板橋病院」(東京)で受診することもあった。

となっており、おそらく直腸癌の肺転移による呼吸不全で亡くなったのでないかと思います。モルヒネは癌性疼痛のための鎮痛剤としての処方と考えますが、麻薬として厳重に取り扱う必要があります。

副学長で同病院に勤務していた男性は21年8月~22年4月に計7回、医師3人にモルヒネを含む「オプソ内服液」などの処方箋の作成を指示。そのうえで、事務長らに薬局で薬を入手させ、田中氏に届けさせていたとみられる。男性は22年に副学長を退任した。


 この7回分の処方箋について、医師3人はいずれも診療を行わずに作成していた。3人は「元副学長が診察し、薬の処方が必要だと判断したと思っていた」などと説明した。


 だが、調査委が院内の電子カルテシステムを解析したところ、田中氏に薬を処方するための診療が行われた記録は、一切なかった。元副学長はヒアリングを拒否し、書面で診療の有無を尋ねても守秘義務を理由に回答しなかったという。

これは守秘義務とは関係ないことでしょう。診療記録がないと言われたら、診療したのかしなかったのかはっきり答えるべきです。

調査委は最終報告書で、処方のための記録が電子カルテに残っておらず、元副学長について医師法違反の可能性が高いと指摘。「厳格に管理すべき医療用麻薬が処方されていた点からも悪質性は高い」とした。


 取材に対し、日大は「監督官庁と協議し、回答を待つよう言われている」として、調査委の指摘内容について答えなかった。元副学長に対しては文書などでコメントを求めたが、17日までに回答はなかった。

きわめて尊大な態度です。この副学長とは一体だれか?調べたら、すぐわかりました。高山忠利氏です。wikiから引用します。

高山 忠利(たかやま ただとし、本名:髙山 忠利、1955年11月29日[1] - )は、日本の医学者、医師。専門は、消化器外科学・肝胆膵外科学。学位は、医学博士。


元日本大学専任副学長、元日本大学医学部長、元日本大学医学部外科学系消化器外科学分野主任教授。

経歴は以下です。

1974年3月 - 日本大学第二高等学校卒業

1980年3月 - 日本大学医学部卒業[3]

1984年3月 - 日本大学大学院医学研究科修了[3][4]

1987年6月 - 国立がんセンター中央病院外科チーフレジデント[3]

〜中略

1995年4月 - 東京大学医学部第二外科講師[3]

1996年11月 - 東京大学医学部第二外科助教授[3]

1997年4月 - 東京大学大学院医学系研究科肝胆膵移植外科助教授[3]

2001年4月 - 日本大学医学部外科学講座外科3部門主任教授、日本大学医学部附属板橋病院外科3部長[3]

〜中略

2020年9月 - 日本大学専任副学長・医学部長、日本大学医学部外科学系消化器外科学分野主任教授、日本大学医学部附属板橋病院消化器外科部長[6]

2020年10月 - 日本大学医学部長を退任

2021年3月 - 日本大学を定年退職[7]。

2021年4月 - 日本大学専任副学長、日本大学総合科学研究所教授[8]

2022年7月 - 日本大学専任副学長を退任

この中で目を引くのが、高山氏が東大第二外科で助教授を務めていることです。東大医学部の中でも移植外科など花形領域を手がける同科には東大生え抜きが多く、他学それも日大のような私立大出身者はきわめて例外的だと思います。どういう経緯なのか興味を持ちました。
医学部教育情報マガジンを手がける「教育広報社」のサイトに、高山氏のインタビューがありました。

卒業後は外科医として開業することを決めていたため、大学院へと進み学位を取得した。父も息子が開業するためのビルを建てていた。1階が長男である高山教授の外科医院、2階が弟の歯科クリニック、3階から上は弟夫婦、高山教授夫婦、両親の住居という人生設計図を描いていたという。

 しかし、大学院で腫瘍免疫学の基礎研究に取り組んだ経験からがん治療に興味を持ち、学位取得後の1984年、国立がんセンターに半年間の臨床研修に参加することに。父には「開業前に少しだけ猶予期間をくれ」と告げての研修参加だった。そこで、件の幕内先生に出会ったのだ。

「『血が出るから触るな』と言われていた肝臓がんの手術が、ここでは当たり前のようにルーチンワークとして行われている。患者さんも治って帰っていく。カルチャーショックというか、『ここは世界有数のレベルだ』と。痺れましたね」

 何より幕内先生の手技に魅了された。時は幕内術式と呼ばれる肝臓を8つの区域に分け、がんができた区域だけを取り除く「系統的区域切除」が開発された頃。ひっきりなしに肝臓がんの患者さんがやってくる。

「とにかくここで勉強させてもらおう」。しかし、当時、国立がんセンターの正規のレジデ

ント枠は3人。他にも20人ほど研修医が居たが、全国から志願して集まった“無給”の半年間限定の研修医で、高山教授もその一人だった。従って、研修期間を終えた後は日大に戻った。そろそろ開業しようかと思っていた頃、幕内教授から電話が掛かってきた。「がんセンターでチーフレジデント制を始めるから来ないか?」という。「行きます」 即断即決が信条だ。

なるほど、国立がんセンターで幕内雅俊氏に出会ったのか。幕内雅俊氏は医学界では有名な「幕内三兄弟」の二番目で、その後東大第二外科学の教授となり肝臓外科学の発展にも大きな貢献がありました。

国立がんセンターに戻った高山教授は、幕内先生の手技を習得すべく、365日ほぼ休みなく働いた。師は厳しく、手取り足取り教えない。盗むしかない。術場に立たせてもらい、師の一挙手一投足を目に焼き付けた。2年の予定が4年になり、レジデントからスタッフドクターになった。

〜中略

その後、東大に移った幕内教授に再び呼ばれ、肝胆膵移植外科の助教授に就任する。

 「さすがにこのときは、父も『開業しろ』とは言わなくなりましたね(笑)」自分がなりたかった医師となり、世界的な功績を上げた息子に、父は十分に満足したのかもしれない。

2001年から母校日大の教授として消化器外科の最前線に立つ高山教授だが、当時は「日大で肝臓外科」というイメージは薄かった。しかし、緻密で難易度の高い高山術式が評判を呼び、肝胆膵がんの手術件数は着実に増え、現在、全国トップの年間300症例を超える。

外科医としての実績はすごいものがあります。最後に最近の外科医不足とからめて、

「職業として見ても、外科医は魅力的な仕事だと思いますよ。頑張れば頑張った分だけのやりがいを得ることができます。ただし、それを得るために必要なのは医学の知識ではなく、むしろ“心”です。医学の勉強は根性さえあれば、誰でもできます。求められるのは患者さんの想いに応えられる熱い心。だって、患者さんは僕らに命を預けるわけですから」

と結んでいます。


 高山氏が外科医として精進したのは事実だと思います。しかし、上記の無分別な行動はきわめて印象が悪いです。まさに古い昭和の親分子分的な発想で行動しており、如何に日大医学部の教授就任にあたって、田中英寿元理事長に多大な恩義を感じていたとはいえ、ガバナンスの欠如した姿勢です。医師向けサイトでは「高山氏は田中元理事長が残した派閥で日大学長就任をもくろんでいるから忖度した」と言われているが、まさかですよね??


読売の記事で

大学運営に詳しい八田進二・青山学院大名誉教授は「多くの命を預かる大学病院で、田中氏を巡って不適切な行為が常態化していたことになる。大学内でガバナンス(組織統治)不全が起こっていたことを示す証左だ」と話した。

と厳しく糾弾されています。しかし、高山氏はその批判が理解できないかもしれない。早く林真理子理事長の下に、日大の運営の透明性が確立することを願うばかりです。

純金茶椀・窃盗 〜父親が独白した“ギリギリの生活”

純金茶碗 東京・台東区の“転売先”で発見 〜故買屋暗躍


再び、日本橋高島屋の純金茶碗窃盗の話ですが、窃盗犯の父親のインタビューが出ていました。集英社オンラインから引用します。


「150万円くらい借金があった」「生活保護を受け昼食はバナナ」逮捕された男の父親が独白した“ギリギリの生活”と展示場の杜撰な警備体制「1万円落ちていたら拾うのと同じですよ」

のっけから何か情けない話が出るだろなという見出しです。

本人のSNSのプロフィールや書き込みなどを見ると、北海道旭川市の出身で、埼玉県を経て江東区に転居、父親と家賃6万8000円の集合住宅に2人で暮らしているらしい。

取材班が自宅を訪ねると、父親がちょうど出てくるところだった。当初は困惑気味だったが、近くの公園のベンチに腰を下ろすと、とつとつと妻や息子、自身のことを語り始めた。


堀江容疑者は一人っ子で、妻は精神疾患で長いこと入院しているという。堀江容疑者が定時制高校を卒業した後に上京し、父は3~4年前に息子を追うように北海道を出て合流したものの、2人とも病弱で仕事も長続きせず、生活保護を受けて暮らしてきたようだ。


「息子が東京に出てきたもんで、私も。息子はコンビニの店員や本屋、警備会社とかいろいろやったけど、朝早いし夜も遅いから長続きしなかった。何に使ってるか本人が言わないからわからないけど、借金もあるらしい。最後に聞いたときは150万円ぐらい、ローンがあるとか言ってた。息子は、勉強はできるんです。読書も好きだった。大学も行きたがってたんだけど、そんな金ないから」

「息子は、勉強はできるんです」かぁ。監視カメラだらけの中で盗みとは「先見の明」ゼロと感じますが?

「いや、私は(純金茶碗を)見てないです。そんなの。(逮捕されるようなことは)初めて。そんなことする子じゃないんです。私からしたら、なんでそんな高いもん、簡単に(ショーケースが)開くようにしてたのかって。一千万円もするのに、そんな『はい、持って行っていいよ』みたいな準備するの、おかしいですよって本当なら言いたいですよ。


結局、手ぇ出した人が一番悪いんだけど。でも、一万円札が落ちてるのも拾ったらダメですよ、というみたいなもんです。だって、お金に困った人を10人歩かせて、その前に一万円札置いたら9人は拾うと思いますよ」

悪事を犯した責任が相手の隙にあるかのような転嫁!確かに金に困っていればネコババしようとする輩が圧倒的に多いと思うけど、それここで言うかね?第一純金茶碗は道ばたに落ちてたんじゃなくて、ケースに収められていたのを開けて取ったんでしょ?

独特な表現をする父親だが、それだけ生活が苦しかったのだろう。普段から、外食などはもってのほかだったという。


「なるべく金かからないようにするには自炊しかないですよ。私がつくってました。1日2食の方が多いですね。昼は大体飛ばして。バナナ1本くらいにして。お金のためです、こっち(東京)は物価が高いから。ちょっと買ったら千円、二千円すぐ飛んじゃうんで。朝はみそ汁つくって、ふりかけでご飯食べて。昼はもしお腹すいたらバナナ。


私は食べない方がいいんですけど。あいつは自分でカップ麺買ってきたりして、お腹がすいた時は食っていました。最低限のお金しかもらえないんです。もうそれ以上は一切出ていない。一円たりとも出ていない。そりゃそうですよ。みなさんの税金でね、私らそれで生かされてんだから。それで十分。


贅沢するといえば、2人で歩いて、まあ公園ぶらぶらしたり。まあ、そんなもんです。今だったら花がいっぱい咲いているからね。『ああ、東京にはこんな花があるんだな』とか。それが私は幸せなんですね。2人で歩けるのが」

頭にもお花がたくさん咲いているようです。働いて稼ごうという気力がまるで感じられない。うちだってめったに外食せんわ。

「優しい子でクソまじめで、仕事があるときは『遅れないように』と始業より何時間も前に家を出ていた。本が好きで、英語も独学で10年ぐらいやってたからできると思うんだけど」


父がそう語る堀江容疑者は、心身ともにもろいところがあり、疲労がたまりやすく、すぐに体のあちこちが痛くなっては仕事を休み、長続きしなかったようだ。母親も病弱だったため、堀江容疑者が幼いころから父親が家事も仕事も両方こなしてきたが、脳梗塞の発作を2回経験し、今も薬が手放せないという。


「息子は体に痛みがあって、ひどい時はトイレにも這って行くくらいで、どうにもならないんですよ。救急車も3回くらい呼んでるんですけど、病院に行って1時間くらいしたら何ともなくて歩いて帰ってきたりすることもあるし。


原因も含めてよくわからないんです。普段、歩いていても突然、脂汗をかいてきて、だるくてすぐに座り込む。『どうしたね』と聞くと『ちょっと座る』とかね。(ここまでひどくなったのは)所沢に住んでガードマンの仕事をしてたんだけど、一昨年にそこを辞めてからだね」

体調不良は脚気のようなビタミン不足と栄養失調が原因でないかと感じますが?母親の精神疾患は息子と関係ないと思うよ。

堀江容疑者は4月に入って体調不良が続き、純金茶わんを盗んだ11日は久しぶりに外出できるほど体力が回復したのだそうだ。そんな堀江容疑者は、どんな少年時代を過ごしたのだろう。


「小学校のころは野球をやってたけど、体もちっちゃいし活発じゃないというか、鈍臭いとこがあるから、レギュラーにはなれなかった。中学になると、理由がわからないんだけど、学校に行かなくなった。『なんで学校行きたくないんだ?』って聞いても、ただ「行きたくない」って。1年生の途中からで、その後ずっと行かなかった。


で、『これじゃだめだ』と思って、不登校の子どもを集めるところに連れて行ってちょっと通わせて。それでも高校は、定時制に入れたんですけど、本人もそこから休みなく4年間無事通ってくれて。この間は働かずに高校に行ってただけだけど、友達も4~5人できて何とか4年間すごしたみたいです」

定時制高校進学は働くためじゃなかったのか。

不登校だった中学時代から打って変わって充実した高校時代を過ごし、大学進学を希望した堀江容疑者だったが…。


「勉強、できるんです。できるから今度は『大学行きたい』って言い出したんだけど、こっちが『ええ?冗談じゃないわ。高校だけでもお前、(カネで)大変な目に遭ったのに』って。まあ仕方ないです。母親のアレ(治療費)もあるし。

♯1でも報じたように、体調不良から定職に就くことは難しかったようだ。


「そうですね。体調悪いもんで。(1日に)1、2時間ならいいかもしれんけど。だから、仕事の紹介状を書いてもらうにしても、1、2時間でまず慣らして、次に3時間,4時間と延ばすという段取りにせないかんね、という話まできていたんです。ようやく。


それまではもう、きょう調子いいかと思うと次の日にはがくんときたり。波がきつくて。ようやく最近波が少なくなってきたら…そういう(物を盗むような)子でなかったんだけれど、どうしたのかな…魔が差したのかな、何だろな…。その矢先なんですよね」

どうみても体調不良は栄養不足が原因と感じます。ビタミンB1不足による「脚気」の症状をDoctors Fileサイトから引用しておきます。堀江大容疑者の容態はまったくそのままと感じます。

ビタミンB1が欠乏すると、まずはイライラ、倦怠感、食欲の低下などの症状が表れます。また末梢神経や中枢神経に異常が生じ、手や足の先に痛みやしびれが出るようになります。さらに進行すると筋力が衰え、感覚障害が出て歩行が不自由になります。


身体だけではなく頭があまりにも弱い父親の発言を聞き、脱力しました。脱力したのでヤフコメを集める気にもならず、ひとつだけ。

みたらしらたま3日前


普通に働け。田舎で家賃2万円ぐらいであります。介護の仕事なら手取り20万円ぐらいはあるので窃盗するぐらいなら何とかなるだろう。働けない理由を探すより働く方法を考えましょう。

おしまい。ただ、これ読んで最近愛読しているブログ「HOUKOUの彷徨人生」の記事を思い出しました。エマニュエル・ボーヴ『のけ者』という本が紹介されています。HOUKOU氏によると、

物語は、夫を無くしすっかり零落したアフタリオン夫人と、その息子二コラのどうしようもなく向上心がない親子のどうしようもない物語である。

勤勉な日本人であれば、「じゃ、働けば」と言いたくなる場面の連続である。

国の如何を問わずこうした類型の人間が、普遍的にいることを何となく感じさせる小説である。

だそうです。むむ、この堀江大容疑者親子とそっくりじゃん!早速アマゾンを参照すると、

ニコラ23歳、無職、宿ナシ》

 かつては「深窓の令嬢」でありながら、どこの馬の骨とも知らぬ移民の若者と駆け落ちし、長年消息を絶っていたルイーズ・アフタリオンは、ある日、夫の忘れ形見ニコラを連れ、姉を頼ってパリに舞い戻る。だが、姉夫婦の冷たい仕打ちに耐えかね、親子はホテル暮らしを決意。やがてその宿代も滞納し、徐々に宿泊先のランクを下げていく。

 金の工面の担当は息子のニコラ、方法はもっぱら無心。親類や友人、また行きずりの誰かから金を借りては、踏み倒していく。決して悪気はないのだが、「貧乏貴族」アフタリオン親子は、ついつい調子に乗って、分もわきまえず、すぐに浪費してしまうのだ。

 追い詰められたニコラは、ようやく郊外の工場に働き口を見つけるが、厳しい規律や表層的な人間関係に疲れ、たった二週間で突然の出社拒否。とうとう母親も精神のバランスを崩し、借金の当ても遂になくなり、親子は破滅へと向かっていく--。

こんな読後感想が出ています。

syaorie1124

5つ星のうち5.0

 悲惨だけどどこか可笑しい。でも他人事と笑ってもいられない。

2010年9月28日に日本でレビュー済み

本屋さんでこの素晴らしい表紙を見て一目惚れ。ただ今まで何度もフランスの小説を読んでは挫折してきたので(たまたま選んだ本が合わなかっただけだとは思うけれど・・・)ちょっと躊躇した。

けれどもこの本は文体も非常に読みやすく、描かれている内容も80年以上も前の本とは思えなくて、現代でも十分通じるというか、ああこういう奴、今でもいるよなあ・・・としみじみ思うのだ。

人間というのは国も時代も関係なく、普遍的なものなんだなあと。


この本では金が無くなる→他人から金を借りる→浪費する→金が尽きる→借金を踏み倒す、をひたすら繰り返し、どんどん金を貸してくれる人が減っていき、どんどん世の中から孤立して、他人に蔑んだ目で見られ自尊心をぼろぼろにされ、みじめになっていく様が淡々と描かれている。

それがいちいち面白い。


働こうともせず他人から金を借りては浪費ばかりしているくせに、自分たち親子に金をくれて助けてくれる人が誰も世の中にいないなんて信じられない!と悲嘆にくれ、散々自分たちが借金を踏み倒してきた親戚や友人や世の中を逆恨みしているというアホが主人公、しかも親子そろってである。

しかもどこかで何の根拠も無く自分の優れた資質を誰かが見抜いて注目してくれるかも、とか思っていたりするあたり、始末におえない。


たまにニュースとかで見かける金目当ての殺人事件。働きもせず自堕落な生活をして金を浪費して、挙句金のために他人を殺すような輩は今世の中にたくさんいるが、心理としてはこの本のアフタリオン親子のような感じなんだろうなあと思う。


〜以下長いので省略

嗚呼!昔からこういうろくでなし親子は洋の東西を問わず、そのへんにごろごろしているのですね。wikiによると、Boveとは以下のような人物。


Emmanuel Bove, né le 20 avril 1898 à Paris 14e et mort le 13 juillet 1945 dans le 17e1, est un écrivain français, connu également sous les pseudonymes de Pierre Dugast et Emmanuel Valois. De santé fragile, très affaibli par une pleurésie contractée durant son exil algérien (paludisme), Emmanuel Bove meurt, le 13 juillet 1945, à l'âge de 47 ans de cachexie et défaillance cardiaque.


Boveには3つもペンネームがあったのね。Boveは堀江大さんみたいに病弱で、結果早死にされたのか。でも彼の場合、閉塞性の胸膜炎とはつまり結核だったのでないか。実話が下敷きにあるかどうか知らんが、そういう情けない話を文学まで昇華させるのがすごい!せっかくだから、フランス語の原文で読んでみるか。

ホタテ養殖に「厄介者」 〜なんと勿体ない評価!

サラガイ(シロガイ) 〜オホーツク沿岸で獲れる貝
「コンキリエ」 〜厚岸の「道の駅」JR駅からも近い
氏家のかきめし 〜ここが本店だったのか!
エゾイシカゲガイ 〜日テレ「満天☆青空レストラン」


日経の夕刊に驚くべきニュースが出ていました(私としては!)。


ホタテ養殖に「厄介者」

青森・陸奥湾、欧州カキ付着 人知れず繁殖し湾内定着か

2024年4月16日


青森県の陸奥湾で、養殖ホタテに謎の二枚貝が付着し漁業の妨げになっている。この「厄介者」の正体が、半世紀以上前に養殖試験のため持ち込まれた欧州原産のカキであることが、青森県産業技術センター水産総合研究所の調査で分かった。大規模な養殖試験は1980年代に終わったが、その後も人知れず繁殖を続け、湾内に定着したとみられる。

ここまで読んで、「これってもしかしてブロンのこと?」と感じました。

研究所によると、このカキは欧州原産の「ヨーロッパヒラガキ」。丸く平たい見た目が特徴で、直径は10センチほど。「血の味」と形容される強い渋みがシャンパンや白ワインに合うとされる。古くから生食用としてフランスや地中海沿岸で愛されてきた高級食材だが、近年欧州では病気の流行などで生産量が激減している。

やはり、ブロンで間違いない。フランスなどヨーロッパでは何世紀も前から、おそらく古代ローマの時代から好まれていたカキで、「Belon」と書きます。

Philippe Rousseau の静物画(19世紀)


チーズプロフェッショナル協会のサイトからの引用です。

数百年前まではノルマンディーからブルターニュあたりの海岸には天然のカキが海底に無尽蔵に転がっていて誰でも取り放題だった。それが乱獲で一気に量を減らし、やっと1840年頃から取り締まりを強化するがほぼ絶滅してしまう。それを救ったのが養殖技術の普及でした。以後フランスのカキは100%養殖になるのです。


ところが1960年代に、またもやフランス・ガキ(平ガキ)に病気が蔓延して、再度絶滅の危機に立たされます。世界各国から種ガキを取り寄せるもすべて失敗。それを救ったのが日本のカキ(真ガキ)なのです。1966年に宮城県から空輸された種ガキが見事に定着。以後種ガキの供給は1980年まで続きます。こうして再度よみがえったフランスの養殖カキの品種は宮城県原産の真ガキが主流となる。(「フランスを救った日本の牡蠣:山本紀久雄」より)。

日本で言うカキは細長い舟みたいな形をしていますが、ブロンすなわちヨーロッパヒラガキは丸くて平らな形状をしておりかなり違います。


上記日経記事でブロンの減少は近年となっていますが、1960年代には減少が始まっていました。もう60年前からでフランスでブロンは「幻のカキ」と言っていいです。このカキが激減したのは、Bonamia ostreaeという原虫(単細胞動物)の一種の感染症が流行したためで、今に至るまで回復していません。今フランスで大量に消費されるカキは、実は日本のカキです。獲れなくなったブロンに替わって、日本のマガキの種苗がフランスに輸出され、それが大々的に養殖されているのです。


再び日経の記事です。

日本には52年にオランダから持ち込まれ、66年に陸奥湾で養殖試験が始まった。新たな水産資源として期待されたが、日本のカキとは異なる独特の味が当時の人の舌に合わなかったためか需要は伸びず、ほとんど流通もしなかった。


しかし、最近になって陸奥湾各地で養殖ホタテに付着する二枚貝の存在が相次いで報告された。2022年、研究所の中山凌研究員が詳しく調べたところ、形状や貝柱のDNA解析からヨーロッパヒラガキと判明した。湾内での生息実態は不明だが、今のところ生態系への大きな影響は確認されていない。

 1950年代にヨーロッパヒラガキが日本に持ち込まれていたことは初めて知りました。しかし、「日本のカキとは異なる独特の味が当時の人の舌に合わなかったためか需要は伸びず、ほとんど流通もしなかった。」とは驚きです。自分のフランス滞在中、一度だけ味わうチャンスがありました。生で食べましたが、実に美味で濃厚な味わいでした。

加熱して食べてみたという中山さんは「身は硬く淡泊な味わい。日本のカキと全く違う印象だが、かすかなうまみは感じた」と一定の評価。「半世紀前とは日本人の嗜好も変わっているはず。ワインに合う珍味として生食で売り出すことができれば、注目される可能性はある」と指摘する。

そうかな?ブロンは確かに普通のカキとやや異なる味ですが、生で食べる限り普通のカキの金属くささがなくずっと上品な風味です(上に書かれる「血の味」というと金属っぽい味になりますが、そうは感じなかった。何かの間違いでないか?)。フランス人は今でもブロンを非常に珍重します。あまりにもったいない評価で、驚きました。確かに外来種の貝ですが、日本にはもうcherry stone、すなわちホンビノス貝は定着し普通に流通していますから、ブロンも普通に流通してくれるととても嬉しいです。

ただ、ホタテ生産の妨げになることから養殖は難しく、天然ものを生食で流通させるには大規模な貝毒検査が必要となるなど、活用のハードルは高い。県水産振興課の担当者も「商品化の話は時期尚早」と慎重だ。


中山さんは「ここまで繁殖した要因や生息域など、分からないことが多い。まずはホタテへの付着状況などのデータを集めたい」と話している。

ホタテの生育がブロンによって特異的に阻害されているとは、ちょっと考えにくい。是非この貴重で美味なカキが日本でも味わえるようになってほしいです。


 追伸:日本のマガキのフランス移入に関して、水産研究・教育機構の旧サイトにこんな記載がありました。「松島がきの今昔」と題した小金澤昭光氏の記事抜粋です。

1960年代に入るとフランスを中心として大西洋沿岸並びに地中海で在来種であるフランスガキ,ポルトガルガキの大量へい死が続いたことにより彼の地で1966年にマガキの養殖試験を行うことが我が国の研究機関,業界に要請された。最初約400kgの種苗が空輸され,移殖実験に供された結果,日本産マガキの種苗としての価値が改めて認識された。その後1970年に本格的な移植がおこなわれるようになり,最盛期の1972年には5,000トンに達した。その頃,チャーター便が年に180機も動員され,帰り便でフランス産ウナギ種苗が輸入されるという具合であった。当時日本産のマガキが,太平洋,大西洋にかけて,“民族の大移動”ともいえる産業的規模での移殖実験を通して,その種特性の優秀性を世界中に喧伝されたものである。